浦安市が市政を施行したのは昭和56年(1981年)のことで、まだわずか33年しかたっていませんが、現在では162,700人ほどの人口をかかえるほどに成長しました。
浦安が町だった時代、その前の村だった時代を支えた町役場跡が、境川にかかる橋のたもとにありました。
明治28年(1895年)から昭和49年(1974年)までこの地にあったということですが、その敷地は非常に小さいもので、まるで当時は人間も小さかったのかと思わせるような場所でした。
江戸時代には幕府に収める年貢米を貯蔵する蔵があり、明治時代の初め、蔵を改造して小学校としました。
この小学校は、明治22年(1889年)4月浦安村の発足とともに、浦安尋常小学校の分校になりましたが、明治27年(1894)年12月に猫実に浦安尋常小学校が建設され、分校が不要になったため、翌28年4月に村役場をここに移転しました。
明治44年(1911年)11月にこの地に作られた新庁舎は、瓦葺き平屋建て、和洋折衷作りの当時としては、モダンな建物で「浦安にすぎたるもの」と言われていたようです。
資料がある昭和45年(1970年)から現在の人口では約7倍に増えていますので、手狭になるのは当たり前で、それ以前からあちこちに分庁舎を置いていたようです。
当時の写真とかを見てもこれではちょっと無理かとは思います。
毎年、人口の増加を続けてきた浦安市でも、2011年の東日本大震災によって埋め立てられた新市街は液状化現象によって甚大な被害がありました。
やはり埋立地というのは地盤が弱いのでしょうか。
それによって新市街の住民たちの一部が市外へ転出して、初めて人口減少となりました。
大きな地図で見る
浦安が町だった時代、その前の村だった時代を支えた町役場跡が、境川にかかる橋のたもとにありました。
明治28年(1895年)から昭和49年(1974年)までこの地にあったということですが、その敷地は非常に小さいもので、まるで当時は人間も小さかったのかと思わせるような場所でした。
江戸時代には幕府に収める年貢米を貯蔵する蔵があり、明治時代の初め、蔵を改造して小学校としました。
この小学校は、明治22年(1889年)4月浦安村の発足とともに、浦安尋常小学校の分校になりましたが、明治27年(1894)年12月に猫実に浦安尋常小学校が建設され、分校が不要になったため、翌28年4月に村役場をここに移転しました。
明治44年(1911年)11月にこの地に作られた新庁舎は、瓦葺き平屋建て、和洋折衷作りの当時としては、モダンな建物で「浦安にすぎたるもの」と言われていたようです。
資料がある昭和45年(1970年)から現在の人口では約7倍に増えていますので、手狭になるのは当たり前で、それ以前からあちこちに分庁舎を置いていたようです。
当時の写真とかを見てもこれではちょっと無理かとは思います。
毎年、人口の増加を続けてきた浦安市でも、2011年の東日本大震災によって埋め立てられた新市街は液状化現象によって甚大な被害がありました。
やはり埋立地というのは地盤が弱いのでしょうか。
それによって新市街の住民たちの一部が市外へ転出して、初めて人口減少となりました。
大きな地図で見る