縮景園は、広島藩主浅野長晟(ながあきら)が、元和6年(1620年)に別邸の庭園として作ったもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇でした。
現代では別邸も庭園も持つことがむずかしいのですが、400年前の藩主というのは贅沢な趣味を持っていたものです。
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その縮景園のほぼ中央に位置するのが、清風館で作庭当時は藩主の休憩所として作られたものでした。
東側には、花頭窓を設けて、濯嬰池、跨虹橋にのぞみ、西側には茶室が設けられ、燈籠・生け垣が優雅な雰囲気をただよわせています。
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頼山陽(さい・さんよう)の叔父頼杏坪(らい・きょうへい)は清風館について「園の正南にあたりて御館ひとつ有。かやが軒端高からず、芦垣のまぢかく結わたしたるさまいと素朴にして、けうしやの風露おはさず、時の名匠の詩歌すこしばかり、将び鹿ひとつふたつゑがかせて壁にをしたまふ。門梁に清風というもじの、から人のかけるをかげ給へり」と記しています。
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多くの人に愛され続けていた清風館は、広島市内の他の建物と同じように昭和20年(1945年)の原爆投下によって焼失。
昭和39年(1964年)になってやっと復元されました。
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書院造の名残をとどめる数寄屋建築で、屋根は杮(こけら)葺きとなっています。
杮葺きは茅葺きに次いで古いもので、現存するものでは法隆寺五重塔、桂離宮、金閣寺、銀閣寺などで、板葺きの一種とされています。
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