よく知られている通り、このような考えはインドだけにあったのではない。キリスト教徒が似たような修行を行っており、詩人テニスンは、『登塔者聖シメオン』のモノローグの中で、その根底にある感性について見事な分析をしている。しかし、この概念をインド的に取り扱うやり方は、樽の中で犬のように生活したディオゲネスが考えたやり方により近い。彼らは罪を懺悔すること、怒れる神に対して慈悲を懇願することはない。意志の強さにより自分の身体を制御し、快楽を軽蔑するだけでなく苦痛を歓迎できるという優越性を示すのである。西洋でも東洋でも、そのような主張は喜んで認められた。インドでは、次のような男に深い敬意が払われている(仏教詩人の言葉を引用する)。

 

恐ろしい森の中で、ただ一人、熱で焼かれ、寒さで凍る

裸で、火はなく、心だけが燃えて

荘厳な沈黙の中、目標に向けて格闘する。(原注)

 

原注 中部経典i. 79、ジャータカの引用1. 390