尾張・知多郡起源の大脇名字

 

 

  石川清水著「大脇の奇祭梯子獅子」によれば、豊明市栄町大脇の地は、建治元年(1275)大脇太郎なる者が阿久伊の庄横根村よりこの地に移住、新田を開き、氏神として大脇神明社(写真)を建立した。大脇名字の発祥の地の一つとされている。この地で発生した大脇名字は、年代が下るにつれ知多半島および三河西部に拡散したと思われる。

 

 河内山雅郎著「大脇氏考」によれば、奥殿藩大脇家の初代小畠隼人重元は、織田信長の家臣であった。二代大脇靭負重貞が織田信長から知多郡大脇村に知行地を拝領し、地名の大脇村から大脇姓に改めたと言う。尾張知多郡大脇に由来するとしている。江戸時代には、奥殿藩松平氏に仕えた。松平氏は、信濃・田野口藩も知行地であった。北越戦争(1868)において、田野口藩を率いた大脇晋助は一族であろう。

 

 大脇伝内は、楽市の塩屋で有名であるが、宿屋を営むと同時に、織田信長の馬回り役でもあった。親族であろう大脇伝介も安土城下で塩屋を営み、安土宗論を引き起こし、斬首された。二人の出自は明らかでないが、手広く塩屋を営んでいることから、当時製塩業が盛んな知多郡の出身が示唆される。

 

 知多郡荒尾村には、大脇、大脇中、大脇下の字名がある。この地は古くより鎌倉御家人荒尾氏の領分であった。荒尾氏は戦国時代には木田城を本拠とした。荒尾氏の配下には知多郡出自の大脇家があったと思われる。荒尾氏は池田氏に伴われ、姫路、岡山、津山、鳥取と転封を繰り返した。津山藩士、米子藩士の大脇家は、荒尾氏に従った知多郡出自と考えられる。

 

 織田信長の家臣を名乗る大脇家の中には、知多郡および三河を出自とする水野信元配下の武士が存在すると思われる。