大脇城

 

1)尾張・知多郡大脇城 

 豊明市栄町梶田の、伊勢湾岸自動車道豊明ICの近くに、戦国時代大脇城があった。現在は城址の碑が立っている。

 永禄3年(1560)の桶狭間合戦では、沓掛城から桶狭間に向けて今川軍の進軍路に近く、かつ大脇村が決戦の現場になったにもかかわらず、いずれの資料にも大脇城の記載が見られないことは、大脇城の築城が1560年以降であったことが推測される。

 天正4年(1576)には、水野信元の家臣、梶川秀盛の居城であった。梶川秀盛は、織田信長、信雄に仕えたのち、豊臣秀吉による朝鮮出兵に参加し死亡した。その後大脇城は廃城となった。

 

 

 

2)尾張・愛知郡大脇城

 現在名古屋市中村区大秋町2丁目に鎮座する「大秋八幡神社」の場所に、信長公記に記された大脇城はあった。文和3年(1354)の「熱田社領目録案」には「大脇郷畠拾町六段三百歩」の記載があり、この地が従来大脇と呼ばれていたことが分かる。また

信長公記に、大脇城と米野城は清須城と那古屋城の間にあると記されており、「大秋」は本来「大脇」が後世誤って伝わった人名と地名であろう。

 大永年間(1521-1528)に、今川氏豊が那古野城に入った時期に、大秋十郎左衛門が大脇城を築城し今川氏豊の配下となった。今川氏豊は享禄5年(1532)、織田信秀の奇策にはまり、那古野城を追われた。その後、大秋十郎左衛門は、林秀貞の与力となった。

 弘治2年(1556)稲生(いのう)の戦いにおいて、大秋十郎左衛門は織田信行の側につき、林秀貞、柴田勝家などと共に、織田信長と戦った。この戦の戦死者に、大脇虎三の名が見られるが、おそらく大秋十郎左衛門の一族と考えられる。稲生の戦いに敗れ、大脇城は廃城となった。

 

 

3)越後・長岡の大脇城

 新潟県長岡市小国町横沢にある大脇城がある。この城は箕輪山城の一部で支城の役割を果たしている。この城郭で大脇の由来を考えると、主城箕輪城にたいして脇を固める重要な支城との意味で「大脇」と呼ばれたのではないか。

 小国氏は清和源氏の出である。鎌倉時代初期に源頼政の子頼継(頼連)が小国の地頭となり、小国氏を称した。頼継の一族主馬頼平が大脇城にあり、後に大脇を名乗った。南北朝時代には小国氏は天神山城に拠点を移した。戦国期に小国は越後毛利氏の支配下となり、大脇城には大脇国成が在城した。

 

4)大隅の大脇城

 肝属郡肝付町前田字大脇は大隅半島の中央部にあり、御幣園城(大脇城)祉がある。肝付氏の居城高山城の支城とされ、高山川を挟んで間近な場所にある。