日向の大脇地名

 

 

  日向国児湯郡三財村大脇(現西都市)は薩摩藩士大脇氏発祥の地とされている。日向の中央部、西都市の西側九州山地の山麓に位置する。源為朝の次男爲清の子孫が佐々木為綱を名乗り、島津忠久に伴い下向、児湯郡三財に至り名主となり、その地を大脇と名付けたとされる。その子孫四郎為直から大脇を名乗った。家紋は四目結である。代々「為」を通字とした。

 日向大脇氏は都於郡の四天衆と呼ばれた豪族の一つで、南北朝時代足利尊氏の旗下伊東氏祐に従い清武城(宮崎市)決戦に臨み武功をあげた。

 西都市に隣接して東諸県郡国富町本庄大脇がある。室町時代国富町在住の大脇氏に因んだ地名と言う。小林市大脇についても、日向大脇家に由来する地名と思われる。           

 

 さて、佐々木為綱が、為朝の子孫でありながら何故佐々木姓を名乗ったのか、何故「大脇」と命名したのか、家紋を四つ目結に定めたのか、気になるところである。

 宇多源氏、佐々木氏の系譜に注目すると、1221年承久の乱において、佐々木定綱、広綱は後鳥羽上皇について敗戦し梟首された。二男為綱は行方不明となる。

 この佐々木為綱こそ、この地名の名付け親であり、乱後日向に落ち児湯郡三財に至り、故郷の近江大脇庄に因み大脇と名付けたのではないか。家紋を四目結としたのも近江佐々木氏の矜持故であろう。

 

 子孫の薩摩藩士の親族が、宝暦の治水(1754)で木曽川の改修に赴いた後、尾張丹羽(にわ)郡に土着し庄屋となった。この一族は、宇多源氏の出であること、戦乱で九州に落ちたこと、もと薩摩藩士であり近臣に剣豪がいたことなどが伝承されている。つまり、源為朝の末裔とする伝承は宝暦以後に作られた仮冒と判断できる。村上源氏、島津忠久とのかかわりで、薩摩藩士として島津家への関りが深いことを示したのであろう。ちなみに、薩摩藩の剣豪は飛太刀流の大脇主衛門政信(安永4年、1774年没)、宝暦治水の出務者に大脇為意(目付)の名前がある。

 

 

      四目結(よつめゆい)