犬が口を開いて死んでいる。
  その歯の白くきれいなこと。
 
これは、詩人小野十三郎さんの有名な2行詩なのだが、皆さんはどんな風に感じられるだろうか。これが詩か、と疑問を持つ人は多いと思う。では、詩と感じる感性と感じない感性の差は何なのか。
 
そのヒントが、小野さんが書き表された『詩論』に満ちている。
 
私は、ここしばらく「感情にバイアス」があること、それが何故なのか考えていて、小野十三郎さんを思い出した。
 
小野さんは「短歌的抒情」に対して、この本で徹底的に疑問を投げかけている。日本人の詩歌への好みは、短歌的抒情に大きく影響されて、それ以外のものは、受け入れにくいという指摘だ。冒頭の2行に詩を感じられるだろうか。
 
つまりは、詩を読んで自分の感情にしっくりくるかどうかは、感情という単体の “良し悪し分別機能” があるのではなくて、文化や歴史性その他もろもろが関わっているという、考えてみれば当たり前の事実に行きつく。詩に「湿潤」「ウエット感」が好まれる背景に、短歌的抒情がよこたわっている(今は、だいぶん変わったかもしれないけれど)。
 
では、詩ではなくて、日常会話はどうだろう?
カウンセリング中の対話から生まれる感情はどうだろう?
 
例えば「共感」が成立するのはどういう条件があるのか?
案外、語られているコトではなくて、雰囲気、ムードでの共感に終わったいることはないか? 例えばラポール、信頼形成の構築といえば、ウエットな語り、もたれあいをイメージすることはないか? 
 
テレビはお笑い全盛。雰囲気にのまれて、思わず笑ってしまうが、冷静になれば怖いなと思う言葉もあるし、態度もある。
 
それを打ち消しているのは、雰囲気。もっというと、だんだんと様式化が進んで、ひな壇トークも、丁々発止のやり取りというよりは、会話のボールの投げ手、受け手がいつの間にか了解したやり取りを繰り返しているふう。
 
もっとも、吉本新喜劇なんかは、様式化を逆手にとって、それがないと笑えないくらいで(例えばズッコケ、お定まりのギャグ)、一概に様式化が悪いとも言い切れない(人により、好き嫌いはある)
 
しかし、カウンセリングのときの感情の動きが「様式化」されているとしたら、それは用心しないとと思う反面、それを利用して好結果に結びつくこともある。その差、使い分けを考えていたら、頭が煮詰まってしまって中断。