前回の「動きのパターン」に対して、私の文章について書いてくださった方がいた。確かに、昔は雑誌や新聞に記事を書いて糊口をしのぐ立場だったが、書いていたのは報道性のあるものやルポ的なものが中心で、文章の良しあしよりも「伝わる」ことが大事だった。文章を習ったこともなく、名文を書いていたわけでもない。
40歳代後半に、小説を書けるようになりたいと思って大阪文学学校(大阪市中央区谷町)に入学した。しかし、直面したのはストーリーづくりの才能の無さ。どうにか、自伝風なものを仕上げて機関誌『樹林』に、2~3作、先生(チューター)や在校生の推薦で掲載していただいたことはあったが、それほど高い評価をいただくものではなかった。
代わりに詩との出会いがあった。詩ならばストーリーの組み立てはあまり意識しなくてもすむし(必ずしもそうとは言い切れない面もあるが)、先生は、下手な詩でも丁寧に批評してくださり、それがうれしかった。調子に乗って、毎週のクラス会に必ず作品を提出した。
そんなせいか、『樹林』には、在校生が選んでくださる特集号をはじめとして、わりと多く私の詩を掲載していただいた。……結果として、詩の学習が、私の文章を変えた。このフェイスブック記事も、ときに無意識に詩のニュアンスが入っていて、分かりにくくしてしまっていることがあるかもしれない。
詩は、文字数が少ないゆえか、むしろ読み取りの幅が広がる。読み手側の心の内で世界が急激に広がったり、変容したりする。それが詩を読む私の楽しみの一つでもある。
発信者の意図と受信者の理解が、ずれてもいいのだ。むしろそこが楽しい。ときには、読み手の側の何かとぶつかって、作者が意図しなかった世界が、創出されることもある。そんなときの合評はいっそう楽しい。
何かが見えてくる、感じるということは、発信者、受け手がぴったり重なるということではない。それを、詩の創作と合評で体感した。
異なるものがぶつかることで、新たなものが生まれるという感覚は、ひょっとしたら、カウンセリングに似ているかもしれない。一義的に意味を伝えるのではなく、伝えるうちに、互いに発想がひらめき、あらたな光が見えてくる感覚である。
「わかってほしい」、「カウンセラーならわかるでしょ」、と時にそのような態度でご相談を持ちかけてくる方がいらっしゃるが、私はその人が感じるようには感じれない。その意味では「共感」は私は苦手だ。その代わり、その人の中に新しい発想や道筋が見えてくるような話のやり取りは好きだ。私の方は、その場で新たに生まれた小宇宙を感じて楽しんでいるふしもある。