アメブロがまだ生きていることに感動を覚えた.なぜならヤフーブログが先日終了してしまったからだ.
このご時世,ツイッターやらYoutubeやら情報発信の場は驚くほどの多様性を獲得し,目まぐるしい変化の上で大衆は踊らされている.このブログを開設した当時はまだ中学生であった.大して賢いわけでもないのに,何にでもなれる全能感を感じていた.いや,頭がよくないからこそ楽観できたのだろう.
あの時から今まで,漠然と昆虫学者になりたいと思って生きてきた.漠然さの傀儡として,日々それになる為にはどう生きるべきかを選択してきた.サイエンスをやる原動力は疑問に思うことである.なぜあの鳥は空を舞い,なぜあの虫は特徴的なダンスを踊り,なぜカエルは歌を歌い,なぜ目の前の彼女は涙を流しているのか.そのような問をティンバーゲン的に考えることで漠然たる昆虫学者に近づいていった.
しかし,肝心な問を見落としていた.そもそも「なぜ私は昆虫学者になりたいのか?」である.職業として何が最適かを考えるときに重要なのはモノでなく動作である.何を扱うモノなのかではなく,そのモノをどのように扱う仕事であるかが大事だ.焼き肉を食べるのが好きな人に焼き肉屋のバイトを紹介するのは最適だろうか?私ならグルメリポーターでも勧めようか.夢をより分解して分解して分解して...割り切れない状態に残った深層心理を元に目標へと再構築する,気づいたからには私自身にも問わなければならなかった.
私は私を正しく見えているのか?鏡に映る私,あなたの瞳に移る私は私たるか?否,私が思う私は私以外に観測できない.ジョハリの窓を私のフレームに当てはめると,何と混濁したことか.この濁りは私自身が今まで感じてきた「Whyを知りたい」という動機そのものに対する問いかけが足りていないことに帰する.眠れぬほどに考えた,私はどういうときに幸せを感じ,何に対して興奮し,どのように死へ向かいたいのか.
結果,やはり私は学者であった.昆虫を弄るのが好きならばペットショップの店員でも良いわけだ.しかし,悪戯に昆虫を触る少年はとうの昔に死んでいた.今の私は,例えば生き物を手に取り,「なぜこのような形に?」「なぜ?」「なぜ?」「知りたい!」という力強い感情に動かされていることがわかった.ただ生き物を飼育したり,標本を並べることから作業以上の価値を受け取れなくなっている自分がいた.決して飼育や採集を否定するわけではないので悪しからず.あくまで私がこうだっただけの話だ.
「原始的衝動」という言葉が好きだ.究極に分解されたポジティブもネガティブもここに落ち着く.原始的衝動は遺伝子の発現であり,遺伝子の発現は化学現象の連続だ.私たちは所詮連続した化学現象に過ぎない.私がカブトムシに強い興味を抱いたのもまた自然の道理なのである.やはり受け入れて生きていきたいし,そもそも抗えるものでもないのだ.
つぎに考えたのが,昆虫をどう見るか?である.学問領域は広い,基礎から応用,中身を見るか行動を見るか群衆を見るか.どのスケールで彼らを観察するかを問うた.突き詰めると個体や集団,群衆の動態に興味を持つ自分がいた.単純に知る,やってみる機会がそう決めさせたようにも思う.分子も興味があったが,やはりカブトムシの細胞よりカブトムシで見たいのである.ただし,拡張された表現型として世界を見たいので,個体レベルで見ようとてやはり枝分かれの上流にある分子レベルの話は捨てきれないだろう.〇〇学という観点からでなく,総合した知見を組み合わせて解釈を述べる中で老いていきたい.
なーんて最近チャリをこぐ真冬の夜に思う訳ですわ,どうもAK83です.
もう見てる人なんていないか...今はTwitterが主流ですよね.あれからというものの,即売会に売り子として参加したり,某最難関にチャレンジして見事玉砕したり,失敗続きの人生を歩んでいます.(実際は都度高次のレベルに喧嘩を売ってボコボコにされてるだけで先には進んでいますが...).今はエンスージアストでもマニアでもなく,職業として彼らと対話を続けたいと思っています.外因性遠回りもありあしたが結局全然ブレなかったです.このご時世ですから,私のこのアホな主体性も適応的なんじゃないですかね?不安定な世の中ですし.
時たまyoutubeで昔トリビアの泉でやってた虫バトルやら,素人のヘラヘラ羽化動画やらを見ると「原始的衝動」に心臓がいじめられるんです.やっぱり何だかワクワクしちゃうな~と.ワクワクが偶然何かを運んでくることもあるので無駄にはならんですね.はい.
もう年末ですか.私は各地を転々と渡り歩くスナフキンが如くをプレイ中であります.最近かなり冷え込むので,どうか風邪をひかれぬようご自愛くださいませ.
おわり
P.S. ハッシュタグってなんぞ