少し長いのですが、
最近私は沖縄でダイビングをしたり、沖縄の海でダイビングライセンスを取りたいと良く考えます。
ダイビングライセンスがあれば、沖縄の大自然ってか海を満喫できるんだろうなぁ。
あとは京都にも行きたいと思っています。
京都には京都タワーというマイナーなものがあるそうです。
でも京都といえば、舞妓さんの姿を体験させてくれるところ(つまり舞妓に変身)やっぱり古き良き日本の文化といえば、舞妓さんのいる京都ですよね。
一度は生で見てみたいなぁ。
それに京都は日本でも有数のパワースポットだそうで、パワーストーンのブレスレットとかを神社とかで売っているらしい。
なんか知らないけど、かなり効き目がありそうな気がしませんか?
関西まで行ったのなら、やはり大阪までも足を伸ばしてみたい。
といっても私にとっては実家のある大阪、実家によると今でも、お見合いをさせられるので、
出来れば大阪には、、、といいつつも、やはりお見合いには興味があるので、気にはなります。
最近は、お見合いパーティーというのも大阪であるそうなので、いつかは行ってみたいものです。
お見合いとかってかなり服装には気をつかうのですが、やはり鞄とビジネスバッグを中心に、ライターもわざわざ高めのデュポンライターを用意して(新しく買うわけではなく、昔誕生日に友人からプレゼントされたもの)顔がイマイチな分身だしなみには最低限ですけど、気を使っています。
今は時計(ジェイコブ)のが欲しいなぁと思っていますが、どうしても車に使ってしまうことが多いです。
そういえば今度、友人の結婚式 2次会に参加するのですが、そのときまでにはいっちょ前の時計が必要ですね。
結婚式の話なのでついでにですが、席札って持ち帰って良いものか悩みます。
ある式では席札が印鑑になっていて、私の本名は割りと珍しいので、是非持って帰りたかったのですが、良いのでしょうかね??
結婚式から帰った後に、割りとお酒を飲んでいるので、スーツをハンガーにかけずに眠りこけてしまって、後悔することがあるのですが、やはり祝いの席、ハンガーよりも酒です。
今度の2次会は新郎に呼ばれたのですが、そいつは東京のある病院に勤めている医師で、
今度医院を開業するそうです。
開業医ってなんでか知りませんが、かっこいい響きですよね。
整体学校に通っていた別の友人によれば、同じ医療でも、医師と整体師では雲泥の差があるようです。
そりゃそうですよね。
私みたいな低学歴の人間がそんな高学歴を絵に書いたような人間となぜ知り合ったのか?という話になりますが、共通の趣味があったからです。
その趣味とは「登山」
現代はどうかわかりませんが、山のマナーとして、すれ違うときは挨拶をするというのがあり、何度か挨拶するうちに、「○○山にこの前いませんでしたか?」と私のほうから声を掛け、親しくなったのが円です。
その後は、私の父の還暦祝いにも出席してくれたり、二人でスーパーコンパニオンやピンクコンパニオンなどを呼ぶために箱根に泊まったりと悪友として親しくしています。中々女性と知り合うことのなかった私にはコンパニオンさんはとっても眩しく、輝いていました。
その友人いわく、「ほとんどが豊胸手術をしている見せ乳だからやめておけ」という話でしたが、そんなことは関係なく、私は夢中になりました。
その子はマイクロダイエットをして、体型を維持しているといっており、コンパニオンの世界もそれはそれで大変なんだと思いました。ちなみにマイクロダイエットとは、食事の代わりに飲むものだそうです。
私はマイクロダイエットなど飲んだことはないので、是非一度は飲んでみたいと思っています。
そういえば、その子はとても良い匂いをしていました。
恐らく香水だったのでしょうが、なんだか幸せな気持ちになりました。
香水って歴史は古いらしくクレオパトラさんが最初らしいですね。
クレオパトラは英才教育を最も早く始めた人とも言われているそうですが、真偽の程はわたしにはわかりません。
ただ、クレオパトラが家庭教師を雇い、自分の息子に色々と教えたという記録が残っているそうです。
教えていた内容は主に帝王学とラクダの操作方法らしく、今では合宿免許のようなものでしょうか?
あとは簡単な計算と読み書きらしいのですが、その息子は、後に外壁リフォーム(現代で言うと)の技術を確立していったそうです。
少し話しが長くなってしまいましたが、婚活をして、早く実家の母親を安心させてあげたいと思っていますので、
出会い待ってます。
ダイビングライセンスがあれば、沖縄の大自然ってか海を満喫できるんだろうなぁ。
あとは京都にも行きたいと思っています。
京都には京都タワーというマイナーなものがあるそうです。
でも京都といえば、舞妓さんの姿を体験させてくれるところ(つまり舞妓に変身)やっぱり古き良き日本の文化といえば、舞妓さんのいる京都ですよね。
一度は生で見てみたいなぁ。
それに京都は日本でも有数のパワースポットだそうで、パワーストーンのブレスレットとかを神社とかで売っているらしい。
なんか知らないけど、かなり効き目がありそうな気がしませんか?
関西まで行ったのなら、やはり大阪までも足を伸ばしてみたい。
といっても私にとっては実家のある大阪、実家によると今でも、お見合いをさせられるので、
出来れば大阪には、、、といいつつも、やはりお見合いには興味があるので、気にはなります。
最近は、お見合いパーティーというのも大阪であるそうなので、いつかは行ってみたいものです。
お見合いとかってかなり服装には気をつかうのですが、やはり鞄とビジネスバッグを中心に、ライターもわざわざ高めのデュポンライターを用意して(新しく買うわけではなく、昔誕生日に友人からプレゼントされたもの)顔がイマイチな分身だしなみには最低限ですけど、気を使っています。
今は時計(ジェイコブ)のが欲しいなぁと思っていますが、どうしても車に使ってしまうことが多いです。
そういえば今度、友人の結婚式 2次会に参加するのですが、そのときまでにはいっちょ前の時計が必要ですね。
結婚式の話なのでついでにですが、席札って持ち帰って良いものか悩みます。
ある式では席札が印鑑になっていて、私の本名は割りと珍しいので、是非持って帰りたかったのですが、良いのでしょうかね??
結婚式から帰った後に、割りとお酒を飲んでいるので、スーツをハンガーにかけずに眠りこけてしまって、後悔することがあるのですが、やはり祝いの席、ハンガーよりも酒です。
今度の2次会は新郎に呼ばれたのですが、そいつは東京のある病院に勤めている医師で、
今度医院を開業するそうです。
開業医ってなんでか知りませんが、かっこいい響きですよね。
整体学校に通っていた別の友人によれば、同じ医療でも、医師と整体師では雲泥の差があるようです。
そりゃそうですよね。
私みたいな低学歴の人間がそんな高学歴を絵に書いたような人間となぜ知り合ったのか?という話になりますが、共通の趣味があったからです。
その趣味とは「登山」
現代はどうかわかりませんが、山のマナーとして、すれ違うときは挨拶をするというのがあり、何度か挨拶するうちに、「○○山にこの前いませんでしたか?」と私のほうから声を掛け、親しくなったのが円です。
その後は、私の父の還暦祝いにも出席してくれたり、二人でスーパーコンパニオンやピンクコンパニオンなどを呼ぶために箱根に泊まったりと悪友として親しくしています。中々女性と知り合うことのなかった私にはコンパニオンさんはとっても眩しく、輝いていました。
その友人いわく、「ほとんどが豊胸手術をしている見せ乳だからやめておけ」という話でしたが、そんなことは関係なく、私は夢中になりました。
その子はマイクロダイエットをして、体型を維持しているといっており、コンパニオンの世界もそれはそれで大変なんだと思いました。ちなみにマイクロダイエットとは、食事の代わりに飲むものだそうです。
私はマイクロダイエットなど飲んだことはないので、是非一度は飲んでみたいと思っています。
そういえば、その子はとても良い匂いをしていました。
恐らく香水だったのでしょうが、なんだか幸せな気持ちになりました。
香水って歴史は古いらしくクレオパトラさんが最初らしいですね。
クレオパトラは英才教育を最も早く始めた人とも言われているそうですが、真偽の程はわたしにはわかりません。
ただ、クレオパトラが家庭教師を雇い、自分の息子に色々と教えたという記録が残っているそうです。
教えていた内容は主に帝王学とラクダの操作方法らしく、今では合宿免許のようなものでしょうか?
あとは簡単な計算と読み書きらしいのですが、その息子は、後に外壁リフォーム(現代で言うと)の技術を確立していったそうです。
少し話しが長くなってしまいましたが、婚活をして、早く実家の母親を安心させてあげたいと思っていますので、
出会い待ってます。
崖の上のポニョ
崖の上のポニョを見ました。
家の近くにTSUTAYAがあるので、比較的に環境には恵まれているのですが、
音楽ばっかりで、DVDを見ることってやっぱり少なかったんですね。
ところがどっこい、元々ジブリ好きなのもあって、
まだ見たことのなかった崖の上のポニョ面白い!
それに最近のDVDは高性能すぎてよく分からなかったのですが、
DVDをダビングできるんですね。
今ではダビングって言わないのかwww
正しくは、DVD プレスって言うのだそうです。
中々DVDを見る機会がないのだけれど、
一度見て気に入った作品はどうしても手元に置いておきたいタイプなので、
DVDプレス、、、、気になります。
家の近くにTSUTAYAがあるので、比較的に環境には恵まれているのですが、
音楽ばっかりで、DVDを見ることってやっぱり少なかったんですね。
ところがどっこい、元々ジブリ好きなのもあって、
まだ見たことのなかった崖の上のポニョ面白い!
それに最近のDVDは高性能すぎてよく分からなかったのですが、
DVDをダビングできるんですね。
今ではダビングって言わないのかwww
正しくは、DVD プレスって言うのだそうです。
中々DVDを見る機会がないのだけれど、
一度見て気に入った作品はどうしても手元に置いておきたいタイプなので、
DVDプレス、、、、気になります。
綺麗に商品を撮るために
綺麗に商品を撮るのって大変です。
僕は前にも言ったかもしれませんが、
ある車のサイトを運営しております。
すると、やはり車の写真を撮って、サイトにUPしなければいけないのですが、
これがまた難しい。
そこで調べてみたら、商品撮影代行をしてくれる人がいるんですね。
商品の撮影を代行してくれるなんでなんて親切なのでしょう。
とっていても無料ではないんですが、センスのない私にはとっても嬉しいサービス。
WEBの従業員も僕だけなので、ちょっぴり手が回っていないというのもあって、商品撮影代行をお願いしようと思います。
僕は前にも言ったかもしれませんが、
ある車のサイトを運営しております。
すると、やはり車の写真を撮って、サイトにUPしなければいけないのですが、
これがまた難しい。
そこで調べてみたら、商品撮影代行をしてくれる人がいるんですね。
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とっていても無料ではないんですが、センスのない私にはとっても嬉しいサービス。
WEBの従業員も僕だけなので、ちょっぴり手が回っていないというのもあって、商品撮影代行をお願いしようと思います。
フェラーリの456について
高級グランツーリスモ及び高級スポーツカーのみを製造していることで有名なフェラーリ(Ferrari S.p.A )
その中でも私が一番好きな車はフェラーリ・456GTです。
フェラーリ・456 GTはイタリアの自動車メーカーであるフェラーリ社が生産したFR、V型12気筒エンジン搭載の2+2座席モデルのグランツーリスモである。
新世代フェラーリの尖兵として、エンジン、シャーシ、パワートレーン共に新規に開発された。
1998年にマイナーチェンジが行われ、名称が456M[1] GT/GTA(それぞれMT/AT)に進化した。2003年まで生産された。生産台数1338台
デザインを担当したのはピニンファリーナ。ディレクションはロレンツォ・ラマチョッティ。デザイナーはピエロ・カルマデッラ。なお、456M GTAのデザイナーは奥山清行。 プロトタイプでは先代の412の流れをくむ比較的角ばったデザインが予定されていたが、他社製クーペとの類似を指摘され、365GTB/4(通称デイトナ)を範とするデザインに変更された。
テスタロッサ、ミトス等で試みられた二つの塊が入り組むデザインを採用し、車体後部アンダーフロアに速度感応式ウィングを装備している。
全長x全幅x全高(mm): 4730mm×1920mm×1300mm
ホイールベース(mm): 2600mm
完全に新規に開発されたF116型 5473cc V型12気筒[2]を搭載。
最高出力/回転数(ps/rpm):442ps/6200rpm
最大トルク/回転数(kg・m/rpm):56kg・m/4500rpm
6速MT(オイルクーラー、LSD装備)
トランスミッションを車体後軸側に配置するトランスアクスル レイアウトを採用 - これにより、前後重量配分の最適化を図る(51:49)
1996年にイギリスのリカルドとフェラーリの共同開発によるトルコン式4速ATを搭載した456GTAが登場。456MGTのモデル後期においては、日本仕様はこのAT仕様のみが輸入された[3]。
348系シャーシが鋼板セミモノコックを採用したため、モノコックと表記する例があるが、456GTは角断面鋼材によるパイプフレームである。
ボンネット- ハニカムコンポジット
前後バンパー- ハニカムFRP
ボディ- アルミ(スチールパイプフレームと中間材フェランにより溶接)
ドア- スチール
独ate社製4輪とも4ポッド、ベンチレーテッドディスクタイプ。 倍力装置は電動油圧倍力装置である。
主な故障箇所2010年5月現在
ウィンドウガラスと車体の間に隙間ができる(生産時の部品寸法のミスにより発生。通常の調整範囲では完治しないが、螺子位置変更により完治可能)
ラジエター水漏れ(経年劣化により発生)
ウォーターポンプ消耗
ヒーターコア水漏れ
点火コイル劣化による失火
燃料ポンプ劣化
フェラーリの買取や査定はジャイアント
ベーパライザー作動不良
リトラクタブルライトモーター作動不良(モーター内浸水により発生)
アンダーウィング作動モーター不良(モーター内浸水により発生)
車高ウォーニングランプ点灯(ダンパー切り替えステッピングモーター接触不良)
ダンパーオイル漏れ(劣化)
シートリトラクタブル不良(シート内ワイヤー抜け)
エアコンパネル劣化(熱・経年劣化)(張替えシールあり)
ウィンドウ不定期上下動(ドアキャッチ部マイクロスイッチ不良)
ヘッドカバーオイル滲み(パッキン劣化)
クラッチ異音(レリーズベアリング消耗)
スピードメーター作動不安定(配線接触不良)
その中でも私が一番好きな車はフェラーリ・456GTです。
フェラーリ・456 GT
フェラーリ・456 GTはイタリアの自動車メーカーであるフェラーリ社が生産したFR、V型12気筒エンジン搭載の2+2座席モデルのグランツーリスモである。
新世代フェラーリの尖兵として、エンジン、シャーシ、パワートレーン共に新規に開発された。
1998年にマイナーチェンジが行われ、名称が456M[1] GT/GTA(それぞれMT/AT)に進化した。2003年まで生産された。生産台数1338台
フェラーリ・456 GTのスタイリング
デザインを担当したのはピニンファリーナ。ディレクションはロレンツォ・ラマチョッティ。デザイナーはピエロ・カルマデッラ。なお、456M GTAのデザイナーは奥山清行。 プロトタイプでは先代の412の流れをくむ比較的角ばったデザインが予定されていたが、他社製クーペとの類似を指摘され、365GTB/4(通称デイトナ)を範とするデザインに変更された。
テスタロッサ、ミトス等で試みられた二つの塊が入り組むデザインを採用し、車体後部アンダーフロアに速度感応式ウィングを装備している。
フェラーリ・456 GTの寸法
全長x全幅x全高(mm): 4730mm×1920mm×1300mm
ホイールベース(mm): 2600mm
フェラーリ・456 GTのエンジン
完全に新規に開発されたF116型 5473cc V型12気筒[2]を搭載。
最高出力/回転数(ps/rpm):442ps/6200rpm
最大トルク/回転数(kg・m/rpm):56kg・m/4500rpm
フェラーリ・456 GTの駆動系
6速MT(オイルクーラー、LSD装備)
トランスミッションを車体後軸側に配置するトランスアクスル レイアウトを採用 - これにより、前後重量配分の最適化を図る(51:49)
1996年にイギリスのリカルドとフェラーリの共同開発によるトルコン式4速ATを搭載した456GTAが登場。456MGTのモデル後期においては、日本仕様はこのAT仕様のみが輸入された[3]。
フェラーリ・456 GTのシャーシ
348系シャーシが鋼板セミモノコックを採用したため、モノコックと表記する例があるが、456GTは角断面鋼材によるパイプフレームである。
フェラーリ・456 GTのボディ
ボンネット- ハニカムコンポジット
前後バンパー- ハニカムFRP
ボディ- アルミ(スチールパイプフレームと中間材フェランにより溶接)
ドア- スチール
フェラーリ・456 GTのブレーキ
独ate社製4輪とも4ポッド、ベンチレーテッドディスクタイプ。 倍力装置は電動油圧倍力装置である。
その他
主な故障箇所2010年5月現在
ウィンドウガラスと車体の間に隙間ができる(生産時の部品寸法のミスにより発生。通常の調整範囲では完治しないが、螺子位置変更により完治可能)
ラジエター水漏れ(経年劣化により発生)
ウォーターポンプ消耗
ヒーターコア水漏れ
点火コイル劣化による失火
燃料ポンプ劣化
フェラーリの買取や査定はジャイアント
ベーパライザー作動不良
リトラクタブルライトモーター作動不良(モーター内浸水により発生)
アンダーウィング作動モーター不良(モーター内浸水により発生)
車高ウォーニングランプ点灯(ダンパー切り替えステッピングモーター接触不良)
ダンパーオイル漏れ(劣化)
シートリトラクタブル不良(シート内ワイヤー抜け)
エアコンパネル劣化(熱・経年劣化)(張替えシールあり)
ウィンドウ不定期上下動(ドアキャッチ部マイクロスイッチ不良)
ヘッドカバーオイル滲み(パッキン劣化)
クラッチ異音(レリーズベアリング消耗)
スピードメーター作動不安定(配線接触不良)
フェラーリ・456 GTの動画
シトロエンのC5の性能スペックや買取とか
シトロエン
シトロエン (Citroën) は、フランスの自動車製造会社である。
ルノー、プジョーと並ぶフランスの三大自動車ブランドの一つである。世界でもいち早く前輪駆動方式を採用したメーカーであり、また窒素ガスを気体バネに用いて高圧油圧制御する独自のサスペンション機構「ハイドロニューマチック(イドロプヌマティク) hydropneumatique」を開発・採用するなど、多くの面で独自性の強い自動車メーカーとして知られる。
シトロエン・C5
シトロエン・C5はフランスの自動車メーカーシトロエンが生産する中型ファミリーカーで、2001年にエグザンティアの後継車種として誕生した。
歴史
初代のC5は5ドアハッチバック及びステーションワゴンボディで登場した。ハッチバックのトランク部分にはエグザンティア同様にノッチが与えられ、遠目にはノッチバックセダンに見えるようなデザイン処理が行われていた。
エンジンは直列4気筒1800ccと2000cc、V型6気筒2900ccのガソリンエンジン、1600cc、2000cc、2200ccの直噴ディーゼルエンジンが選択可能であったが、日本市場には2000ccとV6のガソリンエンジンを搭載したモデルのみが当初は新西武自動車販売、後にシトロエン・ジャポンから正規輸入された。
C5は1982年から99年までシトロエンの会長の座にあったジャック・カルヴェの時代に開発された最後の新型車であるが、カルヴェの在任中はシトロエンらしいデザインや技術上の特色が顕著に薄められた時代であった。例えばC5はシトロエン伝統のハイドロニューマティックサスペンションの進化型であるハイドラクティブサスペンションIIIを用い、その車高調整は従来の機械式のハイトコレクターではなく電子式センサーにより自動的に行われているが、ブレーキとステアリングの油圧制御はサスペンションとは別系統となり、車のあらゆる動きを1つの油圧系統でコントロールしようというDS以来の設計思想が崩された。
この結果、C5の操縦感覚はストロークのほとんどないブレーキタッチや鋭敏なパワーステアリングに特徴付けられていた従来のハイドロニューマティック車から大きく変わり、コンベンショナルな自動車のものに近付いた。
フェイスリフト版
2004年にC5は大規模なマイナーチェンジを受け、新しいフロント周りとリアセクション(セダンのみ)が与えられた。この変更は下位モデルの C4とも共通の、新しいシトロエンのデザインテーマに沿ったもので、ハッチバックの全長は従来の4618mmから4745mmに、ワゴンは4755mmから4840mmに延長された。また、往年のDSを髣髴とさせる照射方向をステアリングに連動させた「ディレクショナル・ヘッドライト」が装備された。また、サイドウインドウは断熱式二重ガラスとされた。
日本市場には引き続きシトロエン・ジャポンによって正規輸入され、一時はHDDナビエディションやレザーパッケージモデルも存在したが、本国で2代目が発表された2007年11月以降は、レザーシートを標準装備した「2.0LE」と「3.0エクスクルーシブ」のハッチバックとワゴンの4車種に絞り込まれていた。
2代目(2007年-)
2代目のC5はヨーロッパでは2007年10月に発表され、4ドアノッチバック及びステーションワゴン(ツアラー)ボディが用意されている。パワートレーンには2700ccV6HDI ディーゼルエンジンが追加されている。セダンがGSA以来続いた5ドアハッチバックではなくなったこと、C4・C6と続いたセンターメーターが通常の位置に戻され、ハイドラクティブではない通常のコイルサスペンション版も用意されるなど、最近のシトロエンの中でも比較的保守的な設計となっている。
日本ではプジョー・シトロエンの両日本法人が統合されて2008年に発足したプジョー・シトロエン・ジャポンから、2008年10月1日より発売された。シトロエンの買取なら中古車買取ジャイアント従来通り2リッター直4・143psの「2.0」(399.0万円・ツアラー419.0万円)と、3リッターV6・215psの「3.0エクスクルーシブ」(479.0万円・ツアラー499.0万円)の4モデルが設定され、日本仕様は全てハイドラクティブサスペンション付きとなっている。旧型より全長で+55mm、全幅+80mm、ホイールベースで+65mm大型化され、価格も旧型2.0LEと新型2.0との比較で35万円上昇している。先代モデルにホイールナットのハブ4穴から5穴に変更された。
2009年には4気筒の1.6Lターボモデルが追加され、日本では2010年から発売が開始された。1.6Lターボエンジンは、C5に先立ってC4やC4ピカソに搭載されている。日本で販売されるグレードは、2.0と同程度の装備のものは「C5セダクション」、3.0エクスクルーシブと同程度の装備のものは「C5エクスクルーシブ」のグレード名がつけられた。価格はセダンのセダクションが424万円、エクスクルーシブが459万円で、ツアラーはそれぞれ20万円高となる。
シトロエンC5の動画
ロータス・エスプリの買取や査定やスペック
しばらくサボってしまいました。
みなさんすいません。
さてさて本日、ご紹介するのは、
イギリス・ノーフォークのヘセル(Hethel)を拠点とする有名なスポーツカーメーカー
ロータス(Lotus Cars)です。
その中でも名車と名高い、エスプリです。
ロータス・エスプリ (Lotus Esprit) は英国のロータスが生産していたスポーツカーである。ロータス・ヨーロッパの後継車として1975年に登場した。ジョルジェット・ジウジアーロのデザイン。ロータスがライトウェイトスポーツカー路線から、スーパーカー路線へ変更したモデルでもある。
1976年の初代モデル“S1”(シリーズ1)(後に"S2"が発表された為、初代はさかのぼって“S1”と呼称されるようになった)から、2004年の最終モデル“V8アニバーサリー”生産終了まで、28年間に渉り1万台以上が生産された。
ロータス・エスプリの原型は、ジウジアーロ率いるイタルデザインが1972年に発表したコンセプトモデルである。フロントウインドシールドにまで平面ガラスを用いたスタイリングは、まさにジウジアーロの真骨頂である。 1975年の10月にはプロトタイプがパリ・サロンに登場、翌1976年に、初代モデル“S1”が発売された。 コンセプトモデルではアルミであったボディは、エラン以降のロータス車と同様にFRPボディに変更された。この変更に合わせて、スタイリングも同時期の同じイタルデザイン作品のマセラティ・ブーメランで発表されていたエッジを強調する細部モチーフを汲んで変更を受けている。 ロータスのFRP成型と言えば、トヨタともパテント契約したロータス特許の真空吸引成型法VARIが有名だが、エスプリのボディに同製法が採用されるのは1988年のニューシェイプ以降であり、この当時のエスプリのボディはハンドレイアップで成型されている。そのため樹脂硬化時のムラによるボディ面の歪が大きく、また個体重量差は100kg近くもあった。
鋼板を溶接したバックボーン・フレームにミッドに搭載されるエンジンは、シリンダーが45度傾倒したロータス自製の2リッター水冷直列4気筒DOHCエンジンである。 1978年にはマイナーチェンジを受けた"S2"が登場。主な変更点はカムの設計変更、リアサスのファインチューン、室内の遮音の見直し、リアクォーターのエアインテークの追加等である。
1980年、ターボモデル『ターボエスプリ』が当時のF1『チームロータス』のメインスポンサー『ESSEX』のカラーリングを纏い、100台限定モデル(量産モデルとは、リアバンパーに『LOTUS』のモールドがない、リアクォーターにエアインテークがない等細部で異なる)として登場した。後にカタログモデルとなる『ターボエスプリ』は、ターボユニット搭載に加えて、2.2リッターにボア・アップされ、大幅にパワーアップした。同時期にV8エンジン搭載モデルも開発されていたが、重量がかさんでしまうことから市販化は見送られた。 『ターボエスプリ』では、わずかに車高が上げられてバンパー高さ規制をクリアし、アメリカへも輸出販売することができるようになった。 翌1981年にはターボエスプリをベースにしたNA版"S3"を発表する。
1987年、それまでの鋳鉄製シリンダーライナーをニカシルコーティングを施したマーレ社製のアルミ製部品へ変更し、燃焼室内の冷却向上によりターボの圧縮を高めることに成功。"HC"(ハイコンプレッションの略)として売り出した。それまで鋳鉄ライナーとアルミブロックの熱膨張差を吸収するために設けられていた大きな冷間時クリアランスが解消し、始動直後のディーゼルエンジンのような振動騒音が抑えられた。またロータス買取や査定は中古車買取ジャイアントがオススメである。
同年通称『ニューシェイプ』と呼ばれる新デザインのエスプリへ世代交代。従来のジウジアーロデザインに比べ、やや丸みを帯びたボディは、ロータス社のピーター・スティーブンスによるものであり、空力性能の大幅な向上が実現した。真空吸引成型VARIの採用によりスチールプレス製と遜色のない滑らかなボディが実現している。 トランスミッションは、従来のシトロエンSM用5段M/Tから、ルノー・アルピーヌGTA用5段M/Tに刷新された。エンジンには、大幅な変更は加えられていないが、ターボモデルは、ギャレットエアリサーチ製T3に水冷式のインタークーラー(チャージ・クーラーと呼ばれる)が組み合わせて搭載された。なお、“ニューシェイプ”以降、最終型以前まで、テールランプはトヨタのAE86レビン(前期型。同兄弟車『トレノ』のものとは異なる)のものを流用した。(最終型ではエリーゼの丸型テールランプへ意匠変更)
1993年、従来の直列4気筒2.2リッターをベースとしながら、過給によって300psを叩き出すホモロゲーションモデル“スポーツ300”が登場。4気筒モデルは、ここに頂点を迎える。
1996年、4気筒とは別系統として、3.5リッターV型8気筒ツインターボエンジンを搭載した“V8”が登場。最高出力350psを発揮した。 ラグジュアリーモデルはSE、スポーツモデルはGTとなる。
その後、4気筒モデルは“S4”→“GT3”と、8気筒モデルは“GT350”→“アニバーサリー”と進化を遂げながら併売され、前述の通り2004年に生産終了となった。
映画007シリーズに登場し、ボンドカーとして活躍した。『007 私を愛したスパイ』に登場したエスプリは潜水艦に変型するなど、秘密兵器を搭載していた。『007 ユア・アイズ・オンリー』には白のターボ(冒頭で自爆)、スキーキャリアを備えたアンバーメタリックのターボが登場した。また、その後もイタリア系プロデューサ(とイタリア人監督)とドイツ製品を嫌う一派が、『プリティ・ウーマン』や『氷の微笑』と立て続けにエスプリをスクリーンに登場させた。
みなさんすいません。
さてさて本日、ご紹介するのは、
イギリス・ノーフォークのヘセル(Hethel)を拠点とする有名なスポーツカーメーカー
ロータス(Lotus Cars)です。
その中でも名車と名高い、エスプリです。
ロータス・エスプリ (Lotus Esprit)の概要
ロータス・エスプリ (Lotus Esprit) は英国のロータスが生産していたスポーツカーである。ロータス・ヨーロッパの後継車として1975年に登場した。ジョルジェット・ジウジアーロのデザイン。ロータスがライトウェイトスポーツカー路線から、スーパーカー路線へ変更したモデルでもある。
ロータス・エスプリ (Lotus Esprit)の解説
1976年の初代モデル“S1”(シリーズ1)(後に"S2"が発表された為、初代はさかのぼって“S1”と呼称されるようになった)から、2004年の最終モデル“V8アニバーサリー”生産終了まで、28年間に渉り1万台以上が生産された。
ロータス・エスプリの原型は、ジウジアーロ率いるイタルデザインが1972年に発表したコンセプトモデルである。フロントウインドシールドにまで平面ガラスを用いたスタイリングは、まさにジウジアーロの真骨頂である。 1975年の10月にはプロトタイプがパリ・サロンに登場、翌1976年に、初代モデル“S1”が発売された。 コンセプトモデルではアルミであったボディは、エラン以降のロータス車と同様にFRPボディに変更された。この変更に合わせて、スタイリングも同時期の同じイタルデザイン作品のマセラティ・ブーメランで発表されていたエッジを強調する細部モチーフを汲んで変更を受けている。 ロータスのFRP成型と言えば、トヨタともパテント契約したロータス特許の真空吸引成型法VARIが有名だが、エスプリのボディに同製法が採用されるのは1988年のニューシェイプ以降であり、この当時のエスプリのボディはハンドレイアップで成型されている。そのため樹脂硬化時のムラによるボディ面の歪が大きく、また個体重量差は100kg近くもあった。
鋼板を溶接したバックボーン・フレームにミッドに搭載されるエンジンは、シリンダーが45度傾倒したロータス自製の2リッター水冷直列4気筒DOHCエンジンである。 1978年にはマイナーチェンジを受けた"S2"が登場。主な変更点はカムの設計変更、リアサスのファインチューン、室内の遮音の見直し、リアクォーターのエアインテークの追加等である。
1980年、ターボモデル『ターボエスプリ』が当時のF1『チームロータス』のメインスポンサー『ESSEX』のカラーリングを纏い、100台限定モデル(量産モデルとは、リアバンパーに『LOTUS』のモールドがない、リアクォーターにエアインテークがない等細部で異なる)として登場した。後にカタログモデルとなる『ターボエスプリ』は、ターボユニット搭載に加えて、2.2リッターにボア・アップされ、大幅にパワーアップした。同時期にV8エンジン搭載モデルも開発されていたが、重量がかさんでしまうことから市販化は見送られた。 『ターボエスプリ』では、わずかに車高が上げられてバンパー高さ規制をクリアし、アメリカへも輸出販売することができるようになった。 翌1981年にはターボエスプリをベースにしたNA版"S3"を発表する。
1987年、それまでの鋳鉄製シリンダーライナーをニカシルコーティングを施したマーレ社製のアルミ製部品へ変更し、燃焼室内の冷却向上によりターボの圧縮を高めることに成功。"HC"(ハイコンプレッションの略)として売り出した。それまで鋳鉄ライナーとアルミブロックの熱膨張差を吸収するために設けられていた大きな冷間時クリアランスが解消し、始動直後のディーゼルエンジンのような振動騒音が抑えられた。またロータス買取や査定は中古車買取ジャイアントがオススメである。
同年通称『ニューシェイプ』と呼ばれる新デザインのエスプリへ世代交代。従来のジウジアーロデザインに比べ、やや丸みを帯びたボディは、ロータス社のピーター・スティーブンスによるものであり、空力性能の大幅な向上が実現した。真空吸引成型VARIの採用によりスチールプレス製と遜色のない滑らかなボディが実現している。 トランスミッションは、従来のシトロエンSM用5段M/Tから、ルノー・アルピーヌGTA用5段M/Tに刷新された。エンジンには、大幅な変更は加えられていないが、ターボモデルは、ギャレットエアリサーチ製T3に水冷式のインタークーラー(チャージ・クーラーと呼ばれる)が組み合わせて搭載された。なお、“ニューシェイプ”以降、最終型以前まで、テールランプはトヨタのAE86レビン(前期型。同兄弟車『トレノ』のものとは異なる)のものを流用した。(最終型ではエリーゼの丸型テールランプへ意匠変更)
1993年、従来の直列4気筒2.2リッターをベースとしながら、過給によって300psを叩き出すホモロゲーションモデル“スポーツ300”が登場。4気筒モデルは、ここに頂点を迎える。
1996年、4気筒とは別系統として、3.5リッターV型8気筒ツインターボエンジンを搭載した“V8”が登場。最高出力350psを発揮した。 ラグジュアリーモデルはSE、スポーツモデルはGTとなる。
その後、4気筒モデルは“S4”→“GT3”と、8気筒モデルは“GT350”→“アニバーサリー”と進化を遂げながら併売され、前述の通り2004年に生産終了となった。
映画007シリーズに登場し、ボンドカーとして活躍した。『007 私を愛したスパイ』に登場したエスプリは潜水艦に変型するなど、秘密兵器を搭載していた。『007 ユア・アイズ・オンリー』には白のターボ(冒頭で自爆)、スキーキャリアを備えたアンバーメタリックのターボが登場した。また、その後もイタリア系プロデューサ(とイタリア人監督)とドイツ製品を嫌う一派が、『プリティ・ウーマン』や『氷の微笑』と立て続けにエスプリをスクリーンに登場させた。
エスプリの動画
プリザーブド最高
プリザーブドフラワー (preserved flower) とは、美しい姿で長時間保存することが出来るように専用の溶液を用いて加工された花のことである。プリザーブドフラワーってマジ最高。「プリザーブ」 (preserve) とは英語で「保存する」の意味。同様の処理を果実に対して有効だよ。
ななななんと!
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アルファ・ロメオ
アルファ・ロメオ(Alfa Romeo )は、イタリアの自動車製造会社である。
第二次世界大戦以前から自動車レース界の強豪でもある高性能車メーカーとして名声を得、戦後もランチアと並びイタリアを代表する上級車メーカーとして知られたが、経営難に陥った後の現在はイタリア最大手のフィアット傘下にあって、ブランドイメージのスポーツ性を前面に出した車の開発、生産を担っている。アルファロメオ 買取は非常に難しいとされている。
ブランドの由縁
創業地・ミラノ市の白地に赤い十字架とヴィスコンティ家の紋章であるサラセン人を呑み込む竜を組み合わせた紋章を頂く楯を表現したフロントグリルを持つ、独特の顔立ちで知られる。フィアットの傘下となって久しい今日でも、その外観の独自性は失われていない。
1920年代から1930年代にかけ、アルファ・ロメオのレース部門のドライバーであったエンツォ・フェラーリは後に独立し、フェラーリ社を設立した。後年、彼は自分の名を冠した車でアルファ・ロメオ車に勝利したとき、「私は自分の母親を殺してしまった」という複雑な感慨を周囲に漏らしたという。
歴史
栄光の発端
1910年、経営危機に喘ぐフランス・ダラック社のイタリア工場、「ダラック・イタリアーナ」をミラノの企業家集団が買収して創立した A.L.F.A. (Anonima Lombarda Fabbrica Automobili) 即ち「ロンバルダ自動車製造株式会社」(ロンバルダとは「ロンバルディアの」を意味する形容詞)を発祥とする。
今に続くミラノ市章の赤十字とかつてミラノを支配したヴィスコンティ家の家紋に由来する人を飲み込む大蛇を組み合わせた同社のエンブレムには、当初「ALFA MILANO」の文字が刻まれていた。記念すべき最初の生産車は高性能な「24HP」で、A.L.F.A. はこれを武器に創業1年にして早くもレースを走り始め、その後も「30HP」「40-60HP」の活躍によってスポーツカーメーカーとしての地歩を固めていった。
1918年にナポリ出身の実業家ニコラ・ロメオ(Nicola Romeo)が同社を買収し、ここにアルファ・ロメオのブランドが誕生するが、正式な会社名はニコラ・ロメオ技師株式会社とされた。このニコラ・ロメオがレース好きだったことが幸いし、ジュゼッペ・メロージをはじめとするアルファ・ロメオの技術スタッフは更なる高性能スポーツカー開発に没頭。初期の傑作「RL」シリーズがデビューする。「RL」はあらゆるレースで大活躍し、アルファ・ロメオの名声を一気に高めた。
これに勢いを得た同社は念願のグランプリレースに挑戦するため、当時の最強チームのひとつ、フィアット・グランプリ・チームの技術者だったヴィットリオ・ヤーノをフィアット内部のゴタゴタに乗じて獲得する。
ヤーノはGPマシンの傑作「P2」「P3」のほか、レーシングスポーツカーの「8C」シリーズ、高級実用車「6C」シリーズなどを設計し、アルファ・ロメオの主要設計者として活躍した。この過程で、1930年代には市販型乗用車にまでもレースモデル同様に高度な設計のDOHCエンジンを搭載する、というアルファ・ロメオ独特の伝統が根付いた。同時期には、前輪にフェルディナント・ポルシェ特許のトレーリングアーム式、後輪にスイング・アクスル式をそれぞれ用いた全輪独立懸架化で、世界の潮流に先んじた。
かの自動車王ヘンリー・フォードは「私はアルファ・ロメオが通るたびに脱帽(Hat Off)する」と言ったといわれるが、これはアルファ・ロメオに対する賞賛であると同時に、生産効率に左右されることなく、少数生産、超高価格販売政策のもとで理想の車づくりに邁進できた同社への皮肉めいた羨望であったかもしれない。
国有化、そして戦火へ
2900「スクーデリア・フェラーリ」
1933年に世界恐慌に端を発する経営難と政治的圧力からイタリア産業復興公社(IRI)の支配下に入り、事実上国営化される。その背後には当時イタリアを支配したベニート・ムッソリーニが深く関わっていたといわれる(ミラノで政治基盤を確立したムッソリーニはアルファ・ロメオを愛用していた)。高い技術力を持つ同社は国策によって軍需産業に組み入れられ、本業のレーシングカー、スポーツカーの製作もそこそこに航空機用エンジンをはじめとする兵器製作に力を注ぐことになる。著名なものとして、マッキ社の単座戦闘機MC.202フォルゴーレのエンジンなどがある。
1943年、ポルテッロ(Portello)にある本社工場が連合軍の3度にわたる空襲によって廃墟と化す。
転機・量産メーカーに
終戦後、オラツィオ・サッタの指揮によって自動車生産の立て直しが図られ、1947年、戦前の高級スポーツカー「6C」シリーズに改良を加えて生産を再開。そしてカロッツェリア・トゥーリングの手になる美しいボディをまとった「6C2500」は、ヴィラ・デステのコンクール・デレガンスで優勝し、世界一優美な車として賞賛された。これを記念して、このタイプは「6C2500 Villa D'Este(ヴィラ・デステ)」と呼ばれる。
1948年に、経営母体をIRI(イタリア産業復興公社)のまま「アルファ・ロメオ・S.P.A.」に改組する。
1950年、超高級・高性能スポーツカーやGTを少数生産するという戦前までのスタイルを自ら捨て去り、新型の「1900」シリーズを引っさげてより確実な利益を見込める大衆量産車メーカーへと転身した。しかしながら量産車であるはずの「1900」も、後輪独立懸架こそ廃されたものの、新開発の4気筒DOHCエンジンをはじめ、レースカーで培った高度な技術を惜しみなく投入して開発されていた。
1954年、この時代のイタリアを代表する小型高性能車として名車の誉れ高いジュリエッタシリーズがデビュー。最初にセダンボディではなく、スポーツモデルの「スプリント」が登場した。無論、諸事情があってのことだったが、これもアルファ・ロメオらしいエピソードと言える。エンジンはアルファの伝統に則ったDOHCで、1300CCの小排気量ながら最高時速160キロという、当時としてはかなりの高性能車だった。「ジュリエッタ」は、ファミリーカーとしても成功を収める一方、その素性が買われ、多くのエントラントの手で数多のツーリングカーレースや公道レースに参戦、イギリスやドイツの小型車と激戦を繰り広げた。
1962年、この年、本拠地がミラノ郊外アレーゼへと移された。そして戦後アルファのイメージを決定づけたジュリアシリーズがデビューする。この車もまた、オールアルミブロックの高性能DOHCエンジン、バルブの材質に熱伝導率の優れたソジウムの使用、5速ミッション、4輪ディスクブレーキなど当時としては先進的な機能の搭載によって、同クラスの車と比べても高い性能を誇った。ジョルジェット・ジウジアーロがデザインした美しいボディのクーペモデルは、今なお戦後アルファの代表格として語られている。
「ジュリア」シリーズは、十分な新車開発投資ができないこともあり、排気量の増大によって排ガス規制も乗り切り長期にわたって生産された。特にダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」にも登場した派生モデルの「スパイダー」(デュエット)はクーペの生産終了後、完全に時代遅れのシャシー性能と動力性能となりながらも、アメリカでの根強い人気に支えられ、マイナーチェンジを繰り返し、フィアットの血を入れた新しいスパイダーモデルが発表されるまで生き延びた。
乱流の時代
1971年、アルファ・ロメオは、商工業が集中する北部(ノルド)に比べ、農業中心で貧しかった南部(スッド)の雇用創出と経済格差是正という国策に従ってナポリのポリミアーノ・ダルコに進出、同社初の量産FF(フロントエンジン・フロントドライブ)小型大衆車、アルファスッドをデビューさせた。アルファスッドは廉価モデルでありながらボディ・デザインを「ジュリア」で功績のあったジョルジェット・ジウジアーロに託し、スペース効率を上げるために新開発の水平対向エンジンを採用するなど大変意欲的な車で、技術的にも性能面でもアルファの名に恥じないものだった。フロントのオーバーハングにエンジンを低くマウントし、異例にキャパシティの大きいサスペンションを得ることで、後輪駆動のジュリアシリーズ以上のコーナリング性能を手に入れたのである。
1966年に日本で発売された スバル・1000 と非常に近似したメカニズムレイアウトを指摘されることがある。また、1968年にヨーロッパへの輸出が開始されたスバル・1000の残骸がアルファロメオのジャンクヤードに積み重ねられている写真を当時のメディアで確認することができる[要出典]が、自動車雑誌スーパーCGNo.29に掲載されているアルファスッドの開発責任者だったルドルフ・ルスカへのインタビュー記事の中で、同氏はアルファスッド以前の同じレイアウトの車の車名をいくつか挙げ、アルファスッドの設計がそれらに「影響されたわけではない」と主張している。
市場に大いなる賞賛を以って迎えられたアルファスッドであったが、労働争議による国内での鉄鋼生産量の著しい減退を補うためにソ連から輸入された鋼板がベルギーやフランスのものより品質が劣っていたこと、工場の建設が計画通りに進まず、その鋼板を数ヶ月も露天に放置していたこと、さらに南部労働力の質的問題による防錆処理の不徹底などから、初期のアルファスッドは「芯から錆びる」クルマとなり、低品質車のレッテルを貼られ、結果としてアルファ・ロメオ全体のイメージを失墜させてしまうこととなった。1983年に登場した後継車の33では、品質の問題はかなり改善されたが、この車種の国外でのセールスは伸び悩んだ。なお、このナポリ進出以降、エンブレムの「ALFA-ROMEO MILANO」から、「MILANO」の文字がはずされている。
1972年、ミラノのアルファ・ロメオから、大成功を収めた「ジュリア」の後継となる新型ファミリーセダンがデビューする。それはアルフェッタと名付けられた。かつてF1GPで活躍した「Tipo158 / 159」の愛称「アルフェッタ」を引き継いだこの車は、高度なメカニズムを持っていた。高性能DOHCエンジン、対地キャンバー変化の少ないド・ディオンタイプのリアサスペンション、バネ下重量軽減に効果のあるインボードタイプのリア・ディスクブレーキやトーションバー式のフロントスプリング、車両の前後重量配分を最適化するためトランスミッションをリアデフと一体化したトランスアクスルタイプのドライブトレーンなど、いずれも車の運動性能と走行性能を高めるための仕組みである。
しかしながら、設計の古いエンジンの性能を落とすことによる排出ガス規制への対応、意欲の低い生産現場にそぐわない高度でコスト高の設計、当時の世界的な水準から大きく劣った品質は、財務体質を改善するに至らず、さらにアルファの凋落を進めたとも言える。このシリーズの設計を活かして各種競技に使われたが、やはり機械的信頼性の低さから、ラリーではトラブルによるリタイヤで終わった。
「アルフェッタ」の基本構造は下級車種(新)ジュリエッタ、そしてそれらの後継のアルファロメオ社創立75周年を記念して生産された75や上級車アルファ6、90に引き継がれたが、度重なるストライキで労働意欲が低下し、製造技術も世界標準から大きく劣ったアルファ社にとって、これまで以上に凝ったコスト高の製品は、アルファの経営を圧迫することになった。元来、性能性を重視し作業性や生産効率を二の次とする体質から、既にそのような量産車メーカーが存続できない時代であったこと、それをブレイクスルーできる人材にも資金にも恵まれていなかったのがアルファ社の悲劇であった。ちなみに商用量産車として初めて可変バルブタイミング機構を採用したのはアルファである。
1984年には日産自動車と提携し、合弁会社「A.R.N.A.(AlfaRomeo and Nissan Automobili)」を設立。共同開発車「アルナ」を生産した。この車は日産の大衆車「パルサー」の車体にスッド由来の水平対向エンジンを搭載したもので、シャシーはもちろん、外観上もフロントにアルファ伝統の盾型グリルが付くほかはパルサーそのもので、イタリア国内ではそこそこ売れたものの、スタイリングは酷評された。日本国内でもこの提携に呼応して「パルサー・ミラノX1」というグレードが設定され、日産ディーラーにアルファ・ロメオのエンブレムが躍ったが、それはイメージ戦略以上の何物でもなく、マーケティング上は双方にもたらすものはほとんどなかった。このプロジェクト自体は結局失敗に終わったが、アルファ・ロメオは日本メーカーの持つ高度な生産システムと品質管理について多くを学んだ。
フィアットと共に・再び繁栄が
経営不振のアルファ・ロメオは、1980年代前半までにイタリア国有の持株会社、フィンメッカニカが実質的な経営を行うようになり、1986年、フォードに競り勝ったフィアットに、アルファ・ロメオ所有の全ての持ち株とともに17.5億米ドルで売却された。フィアットはこの買収について、自社のスポーツカーラインアップの最高の補完になるとした。
そしてフィアットは自社製品とのプラットフォーム統合を進める一方、唯一の資産であったブランドイメージの高揚に注力する。前記のFR世代最後のモデル「75」が惜しまれつつ表舞台から退場する一方、1990年代初頭に、カロッツェリア・ザガートとのコラボレーションで限定生産されたSZ/RZは、スポーツカーとしての素性の良さで評判が高かった。
フィアット買収直前に「ティーポ4」計画の一環として登場した「164」、買収後の「ティーポ3」計画から誕生し、DTM(ドイツツーリングカー選手権)やBTCC(イギリスツーリングカー選手権)等でその名を轟かせた「155」、その派生型として、独創的なフォルムに纏われて登場したパーソナルモデル「スパイダー/GTV」、155の下級モデルでいながら、各々3ドアハッチバックと5ドアハッチバックセダンという独自の車種展開で登場した「145」と「146」、164の後継車「166」が新時代のアルファ・ロメオの名を担った。
これらのモデルは、性能ばかりでなく、これまで未消化だった品質と信頼性の確保にも重きが置かれ、アルファ・ロメオの市場競争力を強めた。そして1997年、「156」が登場。伝統に立脚した鮮烈なスタイルと高性能が1998年度のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを初めてアルファ・ロメオにもたらし、日本を含む世界の大半の市場で好評を得た。さらに2000年に発表された「145/146」の後継車「147」も2001年度カーオブザイヤーに選ばれた。
以後、147のクーペ仕様「GT」が登場、2005年には147がフェイスリフトを受け二代目になる。そのほかクーペ「ブレラ」とそのオープンモデル「スパイダー」、156の後継となる「159」が本国で発表されている。
2006年9月のパリサロンにおいて、以前からコンセプトモデルとして提案されてきた8Cコンペティツィオーネが、全世界500台限定で発売と発表された。市販化について一切の事前発表がないまま突如としてデビューしたこのモデルは、456馬力を発生する4.7LのV型8気筒エンジンをフロントに搭載、駆動系は75以来となる後輪駆動方式を採用している。実際の生産はマセラティの支援を受けるとされている。値段は日本円で2,200万円とアナウンスされ、その生産台数の少なさと相まって、かつての高級・少数生産メーカーだったころをしのばせるものとなっている。
モータースポーツ
草創期
1921年発表の「RL」シリーズが公道レースやヒルクライムレースで大活躍、アルファ・ロメオはレーシングカーメーカーとしての頭角を現わす。
有名な「クワドリ・フォリオ(四葉のクローバー)」が初めてマシンに描かれたのは1923年の第14回タルガ・フローリオの時。マシンは「RLタルガ・フローリオ」で、ウーゴ・シボッチのドライブで見事に優勝し、その後このマークはワークス・チームのシンボルとなった。
このころ、同社にレーシングドライバーとして参加していたエンツォ・フェラーリは、アルファ・ロメオの販売会社を開く傍ら、同志を募り、独自のレーシングビジネスを立ち上げた。 セミ・ワークスチームとして公式チームの出場しないレースでアルファ・ロメオを走らせる、その会社こそが今に続くスクーデリア・フェラーリである。このビジネスは見事成功し、同時にエンツォ・フェラーリはアルファ・ロメオのレース活動に欠かせない存在となっていく。
グランプリ参戦
1929年秋、いよいよアルファ・ロメオは念願のグランプリマシン開発をメロージに命じる。 こうして出来たのが「G.P.R(グラン・プレミオ・ロメオ)」またの名を「P1」と呼ばれるマシンで、1923年に発効した排気量2L以下、車重600kg以上というフォーミュラに適合していた(=6気筒1990ccDOHC、80HP/4800rpm、850kg)。このマシンは前年のグランプリを征して傑作マシンと謳われた「フィアット804」を徹底的にコピーしたもので、デビュー戦は1923年9月9日のヨーロッパ・グランプリ(イタリア・モンツァ)と決まった。 しかし、初のグランプリ前日に、あろうことかエースドライバーのウーゴ・シボッチが練習走行中に事故死してしまう。操縦性に問題があったとされ、チームはレースを棄権して引き上げざるを得なかった。 ちなみにこのレースはフィアット805に乗るカルロ・サラマーノとフェリーチェ・ナザーロがワンツーフィニッシュを飾ったが、これはスーパーチャージャーつきマシンの最初の勝利で、以後スーパーチャージング全盛時代は戦後のF1グランプリ発効後もなお続くのである。
さて、失望のどん底にあったチームは、先にフィアットのレーシングチームを辞してアルファ・ロメオに加わっていたバッツィのアイデアで、804のプレパレーションも行ったスーパーチャージャーのスペシャリスト、ヴィットリオ・ヤーノをフィアットから引き抜くことにした(エンツォ・フェラーリは、これを自分の手柄としているが、ヤーノ自身の述懐によれば、事実はまったく異なる)。実はこのころ、名門のフィアットチームでは内部の紛争が原因で、技術面を支えてきた有力メンバーの離脱が相次いでいた。
スター誕生
ヴィットリオ・ヤーノがミラノにやってきてから3ヶ月後、「P1」は劇的に改良され、名レーシングカー「P2」(8気筒1987ccDOHC+スーパーチャージャー、140HP/5500rpm、750kg)へと生まれ変わった。1924年6月、クレモナ・サーキットに姿を現した「P2」はアントニオ・アスカーリの操縦でいきなり優勝。続くヨーロッパ・グランプリ(フランス・リヨン)で、カンパーリの駆る「P2」は、王者フィアットを完膚無きまでに叩きのめすという、最高の形で念願のグランプリ初勝利を掴み、フィアットに引導を渡したのである。この後フィアットは衰退し、さらに経営方針の変更によってサーキットを去っていった。
続く1925年、史上はじめてグランプリにマニュファクチャラー・チャンピオンシップ制度が設けられると、その栄冠は「P2」を擁するアルファ・ロメオの頭上に輝いた。 こうしてアルファ・ロメオは、一躍グランプリのスターチームになったのである。
しかしそれもつかの間、見えざる手の仕業でアルファは栄光の座を自ら降りざるを得なくなる。
黄金期の到来
真紅の「P2」は大成功を収めたが、1925年、初の世界タイトルに輝いたまさにその年を以て、表向きはアスカーリの事故死を理由に、実際は政治的理由(ファシストの介入)から、突然グランプリ活動を中止させられてしまう。ヤーノ率いる開発チームは、新型グランプリマシンの開発を諦めざるを得なかったが、代わりに市販スポーツカーの開発に集中した。
こうして生まれた「6C1500」シリーズは、高性能スポーツカーとしてアマチュアレーサーの注目を集め、各地のレースで大活躍する。さらに1927年に登場した拡大強化版の「6C1750」は、ワークスチームの手によってタルガ・フローリオやミッレ・ミリアをはじめとした主要レースを席巻し、無敵のスポーツカーとして、名声をほしいままにしたのである。その勝利数は枚挙に暇がない。
1930年、アルファ・ロメオはエンツォ・フェラーリと取引を行い、「P2」を大幅に改造した新型マシンを、創設間もない「スクーデリア・フェラーリ」に託した。このマシンといっしょにスクーデリアに派遣されたスタードライバー、タツィオ・ヌヴォラーリの操縦で、この改造「P2」は再び数多くのレースに勝利し、その素性のよさと基本設計の確かさを見せつけた。
1931年にはレーシング・スポーツカーとして生まれた「8C2300」をストリップダウンして作られた久々の新型グランプリマシン、「8C2300 モンザ」を擁してグランプリに復帰。ヌヴォラーリ、カンパリ、ボルザッキーニといったスタードライバーを揃えて勝ちまくり、アルファ・ロメオは再びグランプリの王者に返り咲いた(その活躍は後の「P3」登場後も続いた)。
ヤーノは「8C2300 モンザ」のデビューと同じ1931年にアルファ初のモノポスト・グランプリマシンたる「ティーポA」を完成させた。これは新設計のシャシーにスポーツカー1750の6気筒エンジンを2基並べて搭載したモンスターだったが、過激な操縦性がアダとなってごく短命に終わる。しかし、この経験を活かして、1932年にはグランプリマシンの真打ち、「P3」(「ティーポB」)が登場する。「P3」は8気筒DOHC 2654ccエンジンにツイン・スーパーチャージャーを備え、215psを発生。最高速は232キロに達した。
「P3」は圧倒的な強さで出場するレースに悉く勝利し、伝説のグランプリマシンとなった。ここに及んでレーシング・アルファの名声は決定的なものとなったのである。
伝説のレース
1935年、ナチス・ドイツの威信をかけて開催されたドイツGPで、アルファ・ロメオのセミ・ワークス・チームスクーデリア・フェラーリからエントリーしたタツィオ・ヌヴォラーリが旧式のアルファ・ロメオ「P3」を駆り、並み居るドイツ勢を振り切って優勝。モータースポーツを国威発揚に利用しようとしたヒトラーを歯噛みさせた。当時のメルセデス・ベンツやアウトウニオン(現アウディ)らドイツ勢は、ヒトラー=ナチスから政治的意図による潤沢な資金を得、高い開発力と技術力に裏付けられたモンスターマシンを繰り出してレース界を席巻していた。そのボディシェルは航空機並みの高品質アルミニウムで作られ、銀色に輝くマシンはシルバーアローと呼ばれて恐れられた。
イタリアのナショナルチームとして期待されながら、アルファ・ロメオは資金にも技術者にも事欠くありさまで、ドイツ勢に対抗できるような戦闘力を持ったマシンを開発できないでいた。天才ヤーノは航空エンジン開発との二足のわらじ状態で混乱していた。リーダーの統率を欠くアルファ・ロメオ社内では中途半端なレーシング・プロジェクトがいくつも動いているような状態で、とても勝利を狙えるような雰囲気ではなかったという。 そんな最中のこの勝利は一時イタリア中を熱狂させたものの、実際のところアルファ・ロメオの勝利というよりはタツィオ・ヌヴォラーリの神がかり的な技量に支えられたものであった。
ちなみにこのとき、ドイツの勝利を疑わないレース主催者は勝者をたたえるイタリア国歌のレコードを持っておらず、ヌヴォラーリ自らが持参したレコードで面目を保ったという。
栄光と挫折
イタリア人の期待を一身に背負い、しかし国からの援助もなく、資金が枯渇して開発のままならないマシンで孤軍奮闘するチームは、こうして一時の美酒に酔うが、それもこのときまでだった。その後、アルファ・ロメオのレーシング部門では政争が渦巻き、ヌヴォラーリが、ヤーノが、そしてフェラーリが去っていった。やがて戦争がすべてを覆い尽くす。
アルファ・ロメオ
参戦年度 1950 - 1951 , 1963 ,
1965 , 1979 - 1985
出走回数 112
コンストラクターズ
タイトル 0
ドライバーズタイトル 2 (1950 , 1951)
優勝回数 10
通算獲得ポイント 50
表彰台(3位以内)回数 26
ポールポジション 12
ファステストラップ 14
F1デビュー戦 1950年イギリスGP
初勝利 1950年イギリスGP
最終勝利 1951年スペインGP
最終戦 1985年オーストラリアGP
F1世界選手権への参戦
1945年、第二次世界大戦が終結すると、空襲を避けるためにミラノ北方オルタ湖近くの乳製品工場に隠しておいた戦前のGPマシン「Tipo158」を持ち帰り、復活したGPレースで早くも大活躍を見せる。
その後、1950年にはじめてF1世界選手権が懸けられると、ファン・マヌエル・ファンジオ、ジュゼッペ・ファリーナらが「Tipo158」を駆り、7戦6勝という圧倒的な強さでシリーズを征し、ファリーナが初代F1王者となった。
1951年、この年もGPで「Tipo158」の改良型、「Tipo159(アルフェッタ)」が大活躍したが、アルファ・ロメオを離れて自らの名を冠したレーシングカーでGPに挑戦するフェラーリに1951年イギリスGP(シルバーストーン)で初めて敗北を喫する。この時のエンツォ・フェラーリの言葉、「私は母を殺してしまった」はあまりにも有名。
シリーズチャンピオンはこの年もアルファ・ロメオとファンジオのものだったが、資金難を理由にこの年限りでF1GPレースから撤退してしまう。最終期は自社マシンの開発もままならず、先に撤退したライバルランチア製のマシンを導入せざるを得ない状況であった。このマシンは同様に自社マシンの開発が頓挫していたフェラーリに譲渡され、皮肉な活躍を見せることとなった。
モータースポーツ活動再開
1966年、天才カルロ・キティ率いる「アウトデルタ」を事実上のワークスチーム化して「ジュリアGTA」で欧州ツーリングカーレース選手権を戦い始める。GTAは「アウト・デルタ」監修のもと、クーペボディをスチールからアルミ製に換装して200kgの軽量化を達成したレーシング・スペシャルモデルだったが、少数ながら市販された。これにワークスチューンを施した車は「GTAコルサ」と呼ばれ、サーキットを席巻した。
他方、ポルシェなどが参戦するグループ6(スポーツカーレース)カテゴリに興味のあったアルファ=アウトデルタは2リッターV8エンジンをミドに搭載したレーシングプロトタイプ「Tipo33/2」を1967年に開発。アルファ・ロメオはこの純然たるレーシングカーにフランコ・スカリオーネがデザインしたボディシェルを被せ、公道走行モデルとして、ごく少数ながら市販した(その数16台といわれる)。「Tipo33/2ストラダーレ」と呼ばれたそのモデルには当時のフェラーリの10倍とも言われるプライス・タグがつけられた。
1973年、グループ6のレーシングカー・プロジェクトは水平対向12気筒エンジンをチューブラーシャシーに架装する「Tipo33/TT12」に発展し、トップカテゴリで活躍した。
F1への復帰
1951年のF1撤退後、1960年から1971年にかけてはアルファロメオ製のエンジンを使い、出走するチーム(デ・トマソ、LDS、マクラーレン、マーチなど)がいくつかあった。また、1963年と1965年に、アルファ・ロメオ・スペシャルとして一時的にF1に復帰した時期もあった。ついに1976年、水平対向12気筒エンジンをイギリスに本拠を構えるF1チームブラバムに供給として本格的にF1に復帰。とびきりのパワーがある反面、重く燃費の悪いエンジンにチームは苦労するが、1978年には前年のワールドチャンピオン、ニキ・ラウダを擁して優勝している。
1979年、ブラバムチームとの契約を終え、いよいよアルファ・ロメオは自社開発のF1マシンでGP復帰を果たす。エンジンは、1980年からはV12、1983年からはV8ターボを搭載し、2位2回の成績をあげた。1983年までは、マクラーレンと同じマールボロがメインスポンサーについたため、そっくりな紅白のカラーリングである。1984年、1985年はベネトンがメインスポンサーとなるが、エンジンの信頼性が低く、1985年のシーズンは、ノーポイントに終わり、当時のドライバーのリカルド・パトレーゼは、「自身、最悪のシーズン」と振り返るほど低迷し、ワークスチームはこの年限りで撤退した。その後1988年まではプライベーターがオゼッラにエンジンの供給を行った。そのころすでに会社は存続の危機を迎えていた。
車種一覧
現行車種
147
159
166
GT
ブレラ
スパイダー
8Cコンペティツィオーネ
MiTo
絶版車種
24HP
12HP
40-60HP
RL
RM
6C
8C
1900
2000/2600・ベルリーナ/スプリント/スパイダー/SZ
ジュリエッタ(初代)
ジュリア
グランスポルト・クアットロルオーテ
1750・ベルリーナ/ベローチェ/GTV
1300/1600ジュニアZ
ティーポ33/2ストラダーレ
モントリオール
アルフェッタ・ベルリーナ/GT
アルファスッド・ベルリーナ/スプリント
ジュリエッタ(ヌオーヴァ)
アルファ6
33
アルナ
90
75
SZ/RZ
164
155
GTV・スパイダー(916系)
145
146
156
SE048
日本におけるアルファ・ロメオ
日本での販売
1983年までの日本への輸入者は伊藤忠オートであり、その後1986年まで日英自動車が引き継いだ。同年よりコスモ石油系の「株式会社アルファロメオジャパン」、1987年から1990年までは大沢商会が輸入・販売を行っていた。
1990年4月、フィアットグループオートモービルズは日本法人「アルファロメオジャパン株式会社」を設立、ディーラー網「アレーゼ」の整備を始めた。同年11月にはアレーゼにおけるフィアットブランド車の併売が開始され、社名を「フィアットアンドアルファロメオモータスジャパン」へと改称している。さらに1997年の「フィアットオートジャパン株式会社」への改称を経て、2007年8月より現在の社名「フィアットグループオートモービルズジャパン株式会社」を使用している。ディーラー網の名称は、2003年からアレーゼに代えて「アルファロメオ」へと変更されているがフィアット・ブランド車の併売は従前同様である。
新車登録台数は、中型乗用車156 が人気を得ていた2002年に、過去最高となる7,426台を記録した。その後の販売は毎年減少を続け、2009年の新車登録台数は2,283台であった。
日本語表記について
二玄社やネコ・パブリッシングの書籍や雑誌では「アルファ・ロメオ」と表記するが、フィアット オート ジャパンでは半角あきの「アルファ ロメオ」と表記している。
第二次世界大戦以前から自動車レース界の強豪でもある高性能車メーカーとして名声を得、戦後もランチアと並びイタリアを代表する上級車メーカーとして知られたが、経営難に陥った後の現在はイタリア最大手のフィアット傘下にあって、ブランドイメージのスポーツ性を前面に出した車の開発、生産を担っている。アルファロメオ 買取は非常に難しいとされている。
ブランドの由縁
創業地・ミラノ市の白地に赤い十字架とヴィスコンティ家の紋章であるサラセン人を呑み込む竜を組み合わせた紋章を頂く楯を表現したフロントグリルを持つ、独特の顔立ちで知られる。フィアットの傘下となって久しい今日でも、その外観の独自性は失われていない。
1920年代から1930年代にかけ、アルファ・ロメオのレース部門のドライバーであったエンツォ・フェラーリは後に独立し、フェラーリ社を設立した。後年、彼は自分の名を冠した車でアルファ・ロメオ車に勝利したとき、「私は自分の母親を殺してしまった」という複雑な感慨を周囲に漏らしたという。
歴史
栄光の発端
1910年、経営危機に喘ぐフランス・ダラック社のイタリア工場、「ダラック・イタリアーナ」をミラノの企業家集団が買収して創立した A.L.F.A. (Anonima Lombarda Fabbrica Automobili) 即ち「ロンバルダ自動車製造株式会社」(ロンバルダとは「ロンバルディアの」を意味する形容詞)を発祥とする。
今に続くミラノ市章の赤十字とかつてミラノを支配したヴィスコンティ家の家紋に由来する人を飲み込む大蛇を組み合わせた同社のエンブレムには、当初「ALFA MILANO」の文字が刻まれていた。記念すべき最初の生産車は高性能な「24HP」で、A.L.F.A. はこれを武器に創業1年にして早くもレースを走り始め、その後も「30HP」「40-60HP」の活躍によってスポーツカーメーカーとしての地歩を固めていった。
1918年にナポリ出身の実業家ニコラ・ロメオ(Nicola Romeo)が同社を買収し、ここにアルファ・ロメオのブランドが誕生するが、正式な会社名はニコラ・ロメオ技師株式会社とされた。このニコラ・ロメオがレース好きだったことが幸いし、ジュゼッペ・メロージをはじめとするアルファ・ロメオの技術スタッフは更なる高性能スポーツカー開発に没頭。初期の傑作「RL」シリーズがデビューする。「RL」はあらゆるレースで大活躍し、アルファ・ロメオの名声を一気に高めた。
これに勢いを得た同社は念願のグランプリレースに挑戦するため、当時の最強チームのひとつ、フィアット・グランプリ・チームの技術者だったヴィットリオ・ヤーノをフィアット内部のゴタゴタに乗じて獲得する。
ヤーノはGPマシンの傑作「P2」「P3」のほか、レーシングスポーツカーの「8C」シリーズ、高級実用車「6C」シリーズなどを設計し、アルファ・ロメオの主要設計者として活躍した。この過程で、1930年代には市販型乗用車にまでもレースモデル同様に高度な設計のDOHCエンジンを搭載する、というアルファ・ロメオ独特の伝統が根付いた。同時期には、前輪にフェルディナント・ポルシェ特許のトレーリングアーム式、後輪にスイング・アクスル式をそれぞれ用いた全輪独立懸架化で、世界の潮流に先んじた。
かの自動車王ヘンリー・フォードは「私はアルファ・ロメオが通るたびに脱帽(Hat Off)する」と言ったといわれるが、これはアルファ・ロメオに対する賞賛であると同時に、生産効率に左右されることなく、少数生産、超高価格販売政策のもとで理想の車づくりに邁進できた同社への皮肉めいた羨望であったかもしれない。
国有化、そして戦火へ
2900「スクーデリア・フェラーリ」
1933年に世界恐慌に端を発する経営難と政治的圧力からイタリア産業復興公社(IRI)の支配下に入り、事実上国営化される。その背後には当時イタリアを支配したベニート・ムッソリーニが深く関わっていたといわれる(ミラノで政治基盤を確立したムッソリーニはアルファ・ロメオを愛用していた)。高い技術力を持つ同社は国策によって軍需産業に組み入れられ、本業のレーシングカー、スポーツカーの製作もそこそこに航空機用エンジンをはじめとする兵器製作に力を注ぐことになる。著名なものとして、マッキ社の単座戦闘機MC.202フォルゴーレのエンジンなどがある。
1943年、ポルテッロ(Portello)にある本社工場が連合軍の3度にわたる空襲によって廃墟と化す。
転機・量産メーカーに
終戦後、オラツィオ・サッタの指揮によって自動車生産の立て直しが図られ、1947年、戦前の高級スポーツカー「6C」シリーズに改良を加えて生産を再開。そしてカロッツェリア・トゥーリングの手になる美しいボディをまとった「6C2500」は、ヴィラ・デステのコンクール・デレガンスで優勝し、世界一優美な車として賞賛された。これを記念して、このタイプは「6C2500 Villa D'Este(ヴィラ・デステ)」と呼ばれる。
1948年に、経営母体をIRI(イタリア産業復興公社)のまま「アルファ・ロメオ・S.P.A.」に改組する。
1950年、超高級・高性能スポーツカーやGTを少数生産するという戦前までのスタイルを自ら捨て去り、新型の「1900」シリーズを引っさげてより確実な利益を見込める大衆量産車メーカーへと転身した。しかしながら量産車であるはずの「1900」も、後輪独立懸架こそ廃されたものの、新開発の4気筒DOHCエンジンをはじめ、レースカーで培った高度な技術を惜しみなく投入して開発されていた。
1954年、この時代のイタリアを代表する小型高性能車として名車の誉れ高いジュリエッタシリーズがデビュー。最初にセダンボディではなく、スポーツモデルの「スプリント」が登場した。無論、諸事情があってのことだったが、これもアルファ・ロメオらしいエピソードと言える。エンジンはアルファの伝統に則ったDOHCで、1300CCの小排気量ながら最高時速160キロという、当時としてはかなりの高性能車だった。「ジュリエッタ」は、ファミリーカーとしても成功を収める一方、その素性が買われ、多くのエントラントの手で数多のツーリングカーレースや公道レースに参戦、イギリスやドイツの小型車と激戦を繰り広げた。
1962年、この年、本拠地がミラノ郊外アレーゼへと移された。そして戦後アルファのイメージを決定づけたジュリアシリーズがデビューする。この車もまた、オールアルミブロックの高性能DOHCエンジン、バルブの材質に熱伝導率の優れたソジウムの使用、5速ミッション、4輪ディスクブレーキなど当時としては先進的な機能の搭載によって、同クラスの車と比べても高い性能を誇った。ジョルジェット・ジウジアーロがデザインした美しいボディのクーペモデルは、今なお戦後アルファの代表格として語られている。
「ジュリア」シリーズは、十分な新車開発投資ができないこともあり、排気量の増大によって排ガス規制も乗り切り長期にわたって生産された。特にダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」にも登場した派生モデルの「スパイダー」(デュエット)はクーペの生産終了後、完全に時代遅れのシャシー性能と動力性能となりながらも、アメリカでの根強い人気に支えられ、マイナーチェンジを繰り返し、フィアットの血を入れた新しいスパイダーモデルが発表されるまで生き延びた。
乱流の時代
1971年、アルファ・ロメオは、商工業が集中する北部(ノルド)に比べ、農業中心で貧しかった南部(スッド)の雇用創出と経済格差是正という国策に従ってナポリのポリミアーノ・ダルコに進出、同社初の量産FF(フロントエンジン・フロントドライブ)小型大衆車、アルファスッドをデビューさせた。アルファスッドは廉価モデルでありながらボディ・デザインを「ジュリア」で功績のあったジョルジェット・ジウジアーロに託し、スペース効率を上げるために新開発の水平対向エンジンを採用するなど大変意欲的な車で、技術的にも性能面でもアルファの名に恥じないものだった。フロントのオーバーハングにエンジンを低くマウントし、異例にキャパシティの大きいサスペンションを得ることで、後輪駆動のジュリアシリーズ以上のコーナリング性能を手に入れたのである。
1966年に日本で発売された スバル・1000 と非常に近似したメカニズムレイアウトを指摘されることがある。また、1968年にヨーロッパへの輸出が開始されたスバル・1000の残骸がアルファロメオのジャンクヤードに積み重ねられている写真を当時のメディアで確認することができる[要出典]が、自動車雑誌スーパーCGNo.29に掲載されているアルファスッドの開発責任者だったルドルフ・ルスカへのインタビュー記事の中で、同氏はアルファスッド以前の同じレイアウトの車の車名をいくつか挙げ、アルファスッドの設計がそれらに「影響されたわけではない」と主張している。
市場に大いなる賞賛を以って迎えられたアルファスッドであったが、労働争議による国内での鉄鋼生産量の著しい減退を補うためにソ連から輸入された鋼板がベルギーやフランスのものより品質が劣っていたこと、工場の建設が計画通りに進まず、その鋼板を数ヶ月も露天に放置していたこと、さらに南部労働力の質的問題による防錆処理の不徹底などから、初期のアルファスッドは「芯から錆びる」クルマとなり、低品質車のレッテルを貼られ、結果としてアルファ・ロメオ全体のイメージを失墜させてしまうこととなった。1983年に登場した後継車の33では、品質の問題はかなり改善されたが、この車種の国外でのセールスは伸び悩んだ。なお、このナポリ進出以降、エンブレムの「ALFA-ROMEO MILANO」から、「MILANO」の文字がはずされている。
1972年、ミラノのアルファ・ロメオから、大成功を収めた「ジュリア」の後継となる新型ファミリーセダンがデビューする。それはアルフェッタと名付けられた。かつてF1GPで活躍した「Tipo158 / 159」の愛称「アルフェッタ」を引き継いだこの車は、高度なメカニズムを持っていた。高性能DOHCエンジン、対地キャンバー変化の少ないド・ディオンタイプのリアサスペンション、バネ下重量軽減に効果のあるインボードタイプのリア・ディスクブレーキやトーションバー式のフロントスプリング、車両の前後重量配分を最適化するためトランスミッションをリアデフと一体化したトランスアクスルタイプのドライブトレーンなど、いずれも車の運動性能と走行性能を高めるための仕組みである。
しかしながら、設計の古いエンジンの性能を落とすことによる排出ガス規制への対応、意欲の低い生産現場にそぐわない高度でコスト高の設計、当時の世界的な水準から大きく劣った品質は、財務体質を改善するに至らず、さらにアルファの凋落を進めたとも言える。このシリーズの設計を活かして各種競技に使われたが、やはり機械的信頼性の低さから、ラリーではトラブルによるリタイヤで終わった。
「アルフェッタ」の基本構造は下級車種(新)ジュリエッタ、そしてそれらの後継のアルファロメオ社創立75周年を記念して生産された75や上級車アルファ6、90に引き継がれたが、度重なるストライキで労働意欲が低下し、製造技術も世界標準から大きく劣ったアルファ社にとって、これまで以上に凝ったコスト高の製品は、アルファの経営を圧迫することになった。元来、性能性を重視し作業性や生産効率を二の次とする体質から、既にそのような量産車メーカーが存続できない時代であったこと、それをブレイクスルーできる人材にも資金にも恵まれていなかったのがアルファ社の悲劇であった。ちなみに商用量産車として初めて可変バルブタイミング機構を採用したのはアルファである。
1984年には日産自動車と提携し、合弁会社「A.R.N.A.(AlfaRomeo and Nissan Automobili)」を設立。共同開発車「アルナ」を生産した。この車は日産の大衆車「パルサー」の車体にスッド由来の水平対向エンジンを搭載したもので、シャシーはもちろん、外観上もフロントにアルファ伝統の盾型グリルが付くほかはパルサーそのもので、イタリア国内ではそこそこ売れたものの、スタイリングは酷評された。日本国内でもこの提携に呼応して「パルサー・ミラノX1」というグレードが設定され、日産ディーラーにアルファ・ロメオのエンブレムが躍ったが、それはイメージ戦略以上の何物でもなく、マーケティング上は双方にもたらすものはほとんどなかった。このプロジェクト自体は結局失敗に終わったが、アルファ・ロメオは日本メーカーの持つ高度な生産システムと品質管理について多くを学んだ。
フィアットと共に・再び繁栄が
経営不振のアルファ・ロメオは、1980年代前半までにイタリア国有の持株会社、フィンメッカニカが実質的な経営を行うようになり、1986年、フォードに競り勝ったフィアットに、アルファ・ロメオ所有の全ての持ち株とともに17.5億米ドルで売却された。フィアットはこの買収について、自社のスポーツカーラインアップの最高の補完になるとした。
そしてフィアットは自社製品とのプラットフォーム統合を進める一方、唯一の資産であったブランドイメージの高揚に注力する。前記のFR世代最後のモデル「75」が惜しまれつつ表舞台から退場する一方、1990年代初頭に、カロッツェリア・ザガートとのコラボレーションで限定生産されたSZ/RZは、スポーツカーとしての素性の良さで評判が高かった。
フィアット買収直前に「ティーポ4」計画の一環として登場した「164」、買収後の「ティーポ3」計画から誕生し、DTM(ドイツツーリングカー選手権)やBTCC(イギリスツーリングカー選手権)等でその名を轟かせた「155」、その派生型として、独創的なフォルムに纏われて登場したパーソナルモデル「スパイダー/GTV」、155の下級モデルでいながら、各々3ドアハッチバックと5ドアハッチバックセダンという独自の車種展開で登場した「145」と「146」、164の後継車「166」が新時代のアルファ・ロメオの名を担った。
これらのモデルは、性能ばかりでなく、これまで未消化だった品質と信頼性の確保にも重きが置かれ、アルファ・ロメオの市場競争力を強めた。そして1997年、「156」が登場。伝統に立脚した鮮烈なスタイルと高性能が1998年度のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを初めてアルファ・ロメオにもたらし、日本を含む世界の大半の市場で好評を得た。さらに2000年に発表された「145/146」の後継車「147」も2001年度カーオブザイヤーに選ばれた。
以後、147のクーペ仕様「GT」が登場、2005年には147がフェイスリフトを受け二代目になる。そのほかクーペ「ブレラ」とそのオープンモデル「スパイダー」、156の後継となる「159」が本国で発表されている。
2006年9月のパリサロンにおいて、以前からコンセプトモデルとして提案されてきた8Cコンペティツィオーネが、全世界500台限定で発売と発表された。市販化について一切の事前発表がないまま突如としてデビューしたこのモデルは、456馬力を発生する4.7LのV型8気筒エンジンをフロントに搭載、駆動系は75以来となる後輪駆動方式を採用している。実際の生産はマセラティの支援を受けるとされている。値段は日本円で2,200万円とアナウンスされ、その生産台数の少なさと相まって、かつての高級・少数生産メーカーだったころをしのばせるものとなっている。
モータースポーツ
草創期
1921年発表の「RL」シリーズが公道レースやヒルクライムレースで大活躍、アルファ・ロメオはレーシングカーメーカーとしての頭角を現わす。
有名な「クワドリ・フォリオ(四葉のクローバー)」が初めてマシンに描かれたのは1923年の第14回タルガ・フローリオの時。マシンは「RLタルガ・フローリオ」で、ウーゴ・シボッチのドライブで見事に優勝し、その後このマークはワークス・チームのシンボルとなった。
このころ、同社にレーシングドライバーとして参加していたエンツォ・フェラーリは、アルファ・ロメオの販売会社を開く傍ら、同志を募り、独自のレーシングビジネスを立ち上げた。 セミ・ワークスチームとして公式チームの出場しないレースでアルファ・ロメオを走らせる、その会社こそが今に続くスクーデリア・フェラーリである。このビジネスは見事成功し、同時にエンツォ・フェラーリはアルファ・ロメオのレース活動に欠かせない存在となっていく。
グランプリ参戦
1929年秋、いよいよアルファ・ロメオは念願のグランプリマシン開発をメロージに命じる。 こうして出来たのが「G.P.R(グラン・プレミオ・ロメオ)」またの名を「P1」と呼ばれるマシンで、1923年に発効した排気量2L以下、車重600kg以上というフォーミュラに適合していた(=6気筒1990ccDOHC、80HP/4800rpm、850kg)。このマシンは前年のグランプリを征して傑作マシンと謳われた「フィアット804」を徹底的にコピーしたもので、デビュー戦は1923年9月9日のヨーロッパ・グランプリ(イタリア・モンツァ)と決まった。 しかし、初のグランプリ前日に、あろうことかエースドライバーのウーゴ・シボッチが練習走行中に事故死してしまう。操縦性に問題があったとされ、チームはレースを棄権して引き上げざるを得なかった。 ちなみにこのレースはフィアット805に乗るカルロ・サラマーノとフェリーチェ・ナザーロがワンツーフィニッシュを飾ったが、これはスーパーチャージャーつきマシンの最初の勝利で、以後スーパーチャージング全盛時代は戦後のF1グランプリ発効後もなお続くのである。
さて、失望のどん底にあったチームは、先にフィアットのレーシングチームを辞してアルファ・ロメオに加わっていたバッツィのアイデアで、804のプレパレーションも行ったスーパーチャージャーのスペシャリスト、ヴィットリオ・ヤーノをフィアットから引き抜くことにした(エンツォ・フェラーリは、これを自分の手柄としているが、ヤーノ自身の述懐によれば、事実はまったく異なる)。実はこのころ、名門のフィアットチームでは内部の紛争が原因で、技術面を支えてきた有力メンバーの離脱が相次いでいた。
スター誕生
ヴィットリオ・ヤーノがミラノにやってきてから3ヶ月後、「P1」は劇的に改良され、名レーシングカー「P2」(8気筒1987ccDOHC+スーパーチャージャー、140HP/5500rpm、750kg)へと生まれ変わった。1924年6月、クレモナ・サーキットに姿を現した「P2」はアントニオ・アスカーリの操縦でいきなり優勝。続くヨーロッパ・グランプリ(フランス・リヨン)で、カンパーリの駆る「P2」は、王者フィアットを完膚無きまでに叩きのめすという、最高の形で念願のグランプリ初勝利を掴み、フィアットに引導を渡したのである。この後フィアットは衰退し、さらに経営方針の変更によってサーキットを去っていった。
続く1925年、史上はじめてグランプリにマニュファクチャラー・チャンピオンシップ制度が設けられると、その栄冠は「P2」を擁するアルファ・ロメオの頭上に輝いた。 こうしてアルファ・ロメオは、一躍グランプリのスターチームになったのである。
しかしそれもつかの間、見えざる手の仕業でアルファは栄光の座を自ら降りざるを得なくなる。
黄金期の到来
真紅の「P2」は大成功を収めたが、1925年、初の世界タイトルに輝いたまさにその年を以て、表向きはアスカーリの事故死を理由に、実際は政治的理由(ファシストの介入)から、突然グランプリ活動を中止させられてしまう。ヤーノ率いる開発チームは、新型グランプリマシンの開発を諦めざるを得なかったが、代わりに市販スポーツカーの開発に集中した。
こうして生まれた「6C1500」シリーズは、高性能スポーツカーとしてアマチュアレーサーの注目を集め、各地のレースで大活躍する。さらに1927年に登場した拡大強化版の「6C1750」は、ワークスチームの手によってタルガ・フローリオやミッレ・ミリアをはじめとした主要レースを席巻し、無敵のスポーツカーとして、名声をほしいままにしたのである。その勝利数は枚挙に暇がない。
1930年、アルファ・ロメオはエンツォ・フェラーリと取引を行い、「P2」を大幅に改造した新型マシンを、創設間もない「スクーデリア・フェラーリ」に託した。このマシンといっしょにスクーデリアに派遣されたスタードライバー、タツィオ・ヌヴォラーリの操縦で、この改造「P2」は再び数多くのレースに勝利し、その素性のよさと基本設計の確かさを見せつけた。
1931年にはレーシング・スポーツカーとして生まれた「8C2300」をストリップダウンして作られた久々の新型グランプリマシン、「8C2300 モンザ」を擁してグランプリに復帰。ヌヴォラーリ、カンパリ、ボルザッキーニといったスタードライバーを揃えて勝ちまくり、アルファ・ロメオは再びグランプリの王者に返り咲いた(その活躍は後の「P3」登場後も続いた)。
ヤーノは「8C2300 モンザ」のデビューと同じ1931年にアルファ初のモノポスト・グランプリマシンたる「ティーポA」を完成させた。これは新設計のシャシーにスポーツカー1750の6気筒エンジンを2基並べて搭載したモンスターだったが、過激な操縦性がアダとなってごく短命に終わる。しかし、この経験を活かして、1932年にはグランプリマシンの真打ち、「P3」(「ティーポB」)が登場する。「P3」は8気筒DOHC 2654ccエンジンにツイン・スーパーチャージャーを備え、215psを発生。最高速は232キロに達した。
「P3」は圧倒的な強さで出場するレースに悉く勝利し、伝説のグランプリマシンとなった。ここに及んでレーシング・アルファの名声は決定的なものとなったのである。
伝説のレース
1935年、ナチス・ドイツの威信をかけて開催されたドイツGPで、アルファ・ロメオのセミ・ワークス・チームスクーデリア・フェラーリからエントリーしたタツィオ・ヌヴォラーリが旧式のアルファ・ロメオ「P3」を駆り、並み居るドイツ勢を振り切って優勝。モータースポーツを国威発揚に利用しようとしたヒトラーを歯噛みさせた。当時のメルセデス・ベンツやアウトウニオン(現アウディ)らドイツ勢は、ヒトラー=ナチスから政治的意図による潤沢な資金を得、高い開発力と技術力に裏付けられたモンスターマシンを繰り出してレース界を席巻していた。そのボディシェルは航空機並みの高品質アルミニウムで作られ、銀色に輝くマシンはシルバーアローと呼ばれて恐れられた。
イタリアのナショナルチームとして期待されながら、アルファ・ロメオは資金にも技術者にも事欠くありさまで、ドイツ勢に対抗できるような戦闘力を持ったマシンを開発できないでいた。天才ヤーノは航空エンジン開発との二足のわらじ状態で混乱していた。リーダーの統率を欠くアルファ・ロメオ社内では中途半端なレーシング・プロジェクトがいくつも動いているような状態で、とても勝利を狙えるような雰囲気ではなかったという。 そんな最中のこの勝利は一時イタリア中を熱狂させたものの、実際のところアルファ・ロメオの勝利というよりはタツィオ・ヌヴォラーリの神がかり的な技量に支えられたものであった。
ちなみにこのとき、ドイツの勝利を疑わないレース主催者は勝者をたたえるイタリア国歌のレコードを持っておらず、ヌヴォラーリ自らが持参したレコードで面目を保ったという。
栄光と挫折
イタリア人の期待を一身に背負い、しかし国からの援助もなく、資金が枯渇して開発のままならないマシンで孤軍奮闘するチームは、こうして一時の美酒に酔うが、それもこのときまでだった。その後、アルファ・ロメオのレーシング部門では政争が渦巻き、ヌヴォラーリが、ヤーノが、そしてフェラーリが去っていった。やがて戦争がすべてを覆い尽くす。
アルファ・ロメオ
参戦年度 1950 - 1951 , 1963 ,
1965 , 1979 - 1985
出走回数 112
コンストラクターズ
タイトル 0
ドライバーズタイトル 2 (1950 , 1951)
優勝回数 10
通算獲得ポイント 50
表彰台(3位以内)回数 26
ポールポジション 12
ファステストラップ 14
F1デビュー戦 1950年イギリスGP
初勝利 1950年イギリスGP
最終勝利 1951年スペインGP
最終戦 1985年オーストラリアGP
F1世界選手権への参戦
1945年、第二次世界大戦が終結すると、空襲を避けるためにミラノ北方オルタ湖近くの乳製品工場に隠しておいた戦前のGPマシン「Tipo158」を持ち帰り、復活したGPレースで早くも大活躍を見せる。
その後、1950年にはじめてF1世界選手権が懸けられると、ファン・マヌエル・ファンジオ、ジュゼッペ・ファリーナらが「Tipo158」を駆り、7戦6勝という圧倒的な強さでシリーズを征し、ファリーナが初代F1王者となった。
1951年、この年もGPで「Tipo158」の改良型、「Tipo159(アルフェッタ)」が大活躍したが、アルファ・ロメオを離れて自らの名を冠したレーシングカーでGPに挑戦するフェラーリに1951年イギリスGP(シルバーストーン)で初めて敗北を喫する。この時のエンツォ・フェラーリの言葉、「私は母を殺してしまった」はあまりにも有名。
シリーズチャンピオンはこの年もアルファ・ロメオとファンジオのものだったが、資金難を理由にこの年限りでF1GPレースから撤退してしまう。最終期は自社マシンの開発もままならず、先に撤退したライバルランチア製のマシンを導入せざるを得ない状況であった。このマシンは同様に自社マシンの開発が頓挫していたフェラーリに譲渡され、皮肉な活躍を見せることとなった。
モータースポーツ活動再開
1966年、天才カルロ・キティ率いる「アウトデルタ」を事実上のワークスチーム化して「ジュリアGTA」で欧州ツーリングカーレース選手権を戦い始める。GTAは「アウト・デルタ」監修のもと、クーペボディをスチールからアルミ製に換装して200kgの軽量化を達成したレーシング・スペシャルモデルだったが、少数ながら市販された。これにワークスチューンを施した車は「GTAコルサ」と呼ばれ、サーキットを席巻した。
他方、ポルシェなどが参戦するグループ6(スポーツカーレース)カテゴリに興味のあったアルファ=アウトデルタは2リッターV8エンジンをミドに搭載したレーシングプロトタイプ「Tipo33/2」を1967年に開発。アルファ・ロメオはこの純然たるレーシングカーにフランコ・スカリオーネがデザインしたボディシェルを被せ、公道走行モデルとして、ごく少数ながら市販した(その数16台といわれる)。「Tipo33/2ストラダーレ」と呼ばれたそのモデルには当時のフェラーリの10倍とも言われるプライス・タグがつけられた。
1973年、グループ6のレーシングカー・プロジェクトは水平対向12気筒エンジンをチューブラーシャシーに架装する「Tipo33/TT12」に発展し、トップカテゴリで活躍した。
F1への復帰
1951年のF1撤退後、1960年から1971年にかけてはアルファロメオ製のエンジンを使い、出走するチーム(デ・トマソ、LDS、マクラーレン、マーチなど)がいくつかあった。また、1963年と1965年に、アルファ・ロメオ・スペシャルとして一時的にF1に復帰した時期もあった。ついに1976年、水平対向12気筒エンジンをイギリスに本拠を構えるF1チームブラバムに供給として本格的にF1に復帰。とびきりのパワーがある反面、重く燃費の悪いエンジンにチームは苦労するが、1978年には前年のワールドチャンピオン、ニキ・ラウダを擁して優勝している。
1979年、ブラバムチームとの契約を終え、いよいよアルファ・ロメオは自社開発のF1マシンでGP復帰を果たす。エンジンは、1980年からはV12、1983年からはV8ターボを搭載し、2位2回の成績をあげた。1983年までは、マクラーレンと同じマールボロがメインスポンサーについたため、そっくりな紅白のカラーリングである。1984年、1985年はベネトンがメインスポンサーとなるが、エンジンの信頼性が低く、1985年のシーズンは、ノーポイントに終わり、当時のドライバーのリカルド・パトレーゼは、「自身、最悪のシーズン」と振り返るほど低迷し、ワークスチームはこの年限りで撤退した。その後1988年まではプライベーターがオゼッラにエンジンの供給を行った。そのころすでに会社は存続の危機を迎えていた。
車種一覧
現行車種
147
159
166
GT
ブレラ
スパイダー
8Cコンペティツィオーネ
MiTo
絶版車種
24HP
12HP
40-60HP
RL
RM
6C
8C
1900
2000/2600・ベルリーナ/スプリント/スパイダー/SZ
ジュリエッタ(初代)
ジュリア
グランスポルト・クアットロルオーテ
1750・ベルリーナ/ベローチェ/GTV
1300/1600ジュニアZ
ティーポ33/2ストラダーレ
モントリオール
アルフェッタ・ベルリーナ/GT
アルファスッド・ベルリーナ/スプリント
ジュリエッタ(ヌオーヴァ)
アルファ6
33
アルナ
90
75
SZ/RZ
164
155
GTV・スパイダー(916系)
145
146
156
SE048
日本におけるアルファ・ロメオ
日本での販売
1983年までの日本への輸入者は伊藤忠オートであり、その後1986年まで日英自動車が引き継いだ。同年よりコスモ石油系の「株式会社アルファロメオジャパン」、1987年から1990年までは大沢商会が輸入・販売を行っていた。
1990年4月、フィアットグループオートモービルズは日本法人「アルファロメオジャパン株式会社」を設立、ディーラー網「アレーゼ」の整備を始めた。同年11月にはアレーゼにおけるフィアットブランド車の併売が開始され、社名を「フィアットアンドアルファロメオモータスジャパン」へと改称している。さらに1997年の「フィアットオートジャパン株式会社」への改称を経て、2007年8月より現在の社名「フィアットグループオートモービルズジャパン株式会社」を使用している。ディーラー網の名称は、2003年からアレーゼに代えて「アルファロメオ」へと変更されているがフィアット・ブランド車の併売は従前同様である。
新車登録台数は、中型乗用車156 が人気を得ていた2002年に、過去最高となる7,426台を記録した。その後の販売は毎年減少を続け、2009年の新車登録台数は2,283台であった。
日本語表記について
二玄社やネコ・パブリッシングの書籍や雑誌では「アルファ・ロメオ」と表記するが、フィアット オート ジャパンでは半角あきの「アルファ ロメオ」と表記している。