こんにちは!タコリーナです!タコ

引き続きの長崎旅で御座います。。


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さて…

ダメ元でエントリーした。。

軍艦島クルーズ当日キャンセル待ち。。 

キャンセルが出れば携帯に連絡来るらしいが…

どうせダメだろと思いつつも。。

一応、乗船に備えてトイレへ…
手をふきふき戻ろうとすると、、

遠くでタコリーノが携帯を持ってあたふたしているではないか。。


もしや?!びっくり


慌ててかけつけると。。


『キャンセル出たって!もうすぐ出るから!急いで!』


なんだってーー!!?ポーン


その後はもうバタバタだ。。

急いで窓口で手続きをして、、

チケットを手に乗り場へ急ぐ。。

途中。。

水を持ってきてないことに気づき、、

道を逸れて自販機に走る。。

そして…

タコリーノがいきなりチケットを無くすww

焦って探すと…

パンフレットの間からヒラリ…

あっ…もうっ!

そしてまた走る。。。


そんなこんなで…

無事乗船。。

因みに…

船の中には自販機もトイレもあった。。


我々は殆ど最後の乗船客だったから、、

空いてる席にバラバラに座ることにした。


軍艦島に到着するまでは、、

30〜40分くらいのクルーズだったと思う。。

景色のよく見えない席につき、写真は無い…

代わりと言っては何だが。。

以下、軍艦島について聞きかじったプチ“うんちく”を少しだけ。。
(不要な方はぐ〜んと下にスクロールして飛ばしてくだされ…)

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『軍艦島』
 
正式名称は端島(はしま)。。

見た目が軍艦ぽいことから、そう呼ばれるようになった。

 端島はかつて、三菱による炭鉱業で栄華を極めた。その後主要エネルギーが石油に移行すると、1974年、炭鉱は閉山し、無人島になった。
 その後、荒廃、崩落が進み、独特の風貌の廃虚島と化していった。
 
 しかし、閉山から30年経った2003年『軍艦島を世界遺産にする会』が発足。2015年に『明治日本の産業革命遺産・製鉄・製鋼・造船・石炭産業』の構成資産として世界文化遺産に登録された。(所有権は2005年に長崎県に移行)
 今も建物の崩落が続いている為、維持保存のプロジェクトは続行されている。。

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長崎港から南西に18キロの沖合に位置する端島は…

はじめは小さな岩礁の無人島だった、、

江戸時代から、良質な石炭の取れる海底炭田があるのがわかっていたが、、

台風の影響をモロに受ける難所で…

開発は頓挫を繰り返した。。。ショボーン

時代は流れ、、

1890年(明治23)に三菱が端島を買収した。

本格的に採掘が始まり、、

出だしは苦戦するも。。

財力と技術を終結し、、

頑張った。。プンプン

そのかいあって、、

その良質な石炭と豊富な採掘量は、、

日本の工業発展に大きく貢献する事となった。口笛


一方。。

採掘に際しては多くの人員を要し。。

炭鉱で働く者たちや家族は島に移り住んだ。。

そして炭鉱事業の成功により、、

島は豊かになり、人口はどんどん増えた。。

それに伴い、、

学校、商店、病院、郵便局、共同浴場、神社、娯楽施設etc…

生活に必要な施設が次々と設けられ、、

都市として全ての機能が備わっていたといわれている。。


と同時に…

限られた土地の中では、、

建物はくっつき合う様に乱立し。。

建物と建物の間には、空中回廊や、、

縫うように階段が巡らされ、、

立体迷宮と化していった。。

『地獄階段』ガーン

と呼ばれる有名な階段もある。。


また、

戸数を稼ぐためには、高さを上へと伸ばす必要があり、、

採用されたのが、、

日本初の鉄筋コンクリート高層住宅の建設だった。。  

勿論…

人口密度が凄まじかったのは想像に固くなく…

1960年には人口密度世界最大を記録したそうだ。。びっくり


当然、小さな島の敷地は足りなくなるので。。

埋立・敷地拡張が繰り返し行われた。(40年間で6回)

同時に高波から守るべく…

島の周囲は城塞さながらの岸壁で固められていった。。(その高さ10メートル超!)

端島が軍艦島と呼ばれる様になったのは…

この、そびえる岸壁と…

その上に更ににそびえる、、

巨大コンクリート群の様子が…

まるで軍艦の様に見えた。。

というところからくる。。


さて、、

そんなディープな軍艦島だが、、

島民の絆はとても強く、、

島全体が家族のようだったそうだ。。おねがい

苦難も色々あれど…

助け合って日々を送っていたという。。

因みに、、
 
鍵をかけている家などなかったとの話だ…爆笑


一方…

生活水準はかなり高かったという。。

危険と背中合わせの…

炭鉱員の給料は良く。。

当時、普通の家庭にはまだ十分に普及していなかった三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)も…

多くの家庭に備わり、、

テレビは100%の普及率だったという。びっくり


最後に閉山後の話になるが…

閉山後には…

おそよ3ケ月という早さで、、

全ての住民が島を離れていったという。。

そのため…

家財道具の殆どはそのまま残され…

賑やかだった生活の痕跡を残したまま…

静かに朽ちていく事となった。。

それはまさに、、

大きなタイムカプセルのようだ…

などとも言われている。。。

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そんなこんなで…

プチ“うんちく”を語っているうちに、、
軍艦島が見えてきた!!
おぉ。。

なんか凄い。。
因みに、この高い岸壁と、、

変わりやすい波の影響で、、

着岸がとても難しいそうだ。。

波の具合によってはその場で上陸を諦め、、

周遊ツアーに変更になる事もあるらしい。。

窓から固唾をのんで着岸作業を見守った。。

すると…
ナイスーー!!口笛

着岸成功♪

着岸スポットはこの西側の、“ドルフィン桟橋”一箇所だけだ。。

チケットと一緒に渡された入島許可証を提示していざ上陸!!

ガイドさんが説明しながら案内してくれる。。
上の建物は三菱職員幹部用の住宅。。

高波の影響を受けないように高台にある。。

各戸、風呂付きだったそうな。。
ズームするとかなり崩れているのが分かる。。

左下の石垣のような石積みは初期の岸壁??

後期のコンクリート製より強固だったそうだ。。
島は今でこそ草木に覆われているが、、

これは無人島になってからのもので。。

当時は緑地はなく、屋上に小さな緑地や菜園が設けられていたそうだ。。
写真左から連なる支柱は、石炭を運んだベルトコンベヤーの支柱。。

右奥は小学校。。
見学エリアは柵に囲まれた僅かな遊歩道のみ…

施設や建物は、今この瞬間にも崩壊する危険があるそうだ。。
↑見学ルート。。

少なっww爆笑
鉱山施設は波の影響の少ない西側に集中している。。

今は殆どが崩壊してしまったが、主力坑だった第二竪坑の設備が僅かに残っている。。

因みに、海底炭坑へと降りるリフトは柵がなく…

ぎっしりと鉱員を乗せたそれは…

600m程の深さを約3分間で昇降し。。

中間地点の最高速度は秒速8mにも達したそうだ。

普通のエレベーターは秒速1m程だというから…

超速いではないか★△■✕◎!!

ぶるる。。。
灯台(左上)は、無人島になってから灯りとりの為にたてられた。。
正面が日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の30号棟アパート。(1916年築)

左は31号棟。(公衆浴場、郵便局、理髪店などが入っていた)

どちらも鉱員社宅だ。。


そんな感じで…

上陸による見学は以上だ。。
時間も見学エリアも少しだったが…

実際見た軍艦島はやはり撃的だった。。


かつて炭鉱業で栄華を極め…

人々の賑わいで溢れていた…

この目の前のコンクリート郡は…

当時の気配を残したまま…

見た目だけがただ荒廃している。。

その無機質な中にも、、

僅かに感じる“体温”のようなものに…

一瞬、、

時空の歪みという言葉が浮かんで、、

ゾクッとした。。


さあ…

余韻に浸っている場合ではない。。
ガイドさんに促され、、

急いで船に戻る。。

帰りは軍艦島の周りをぐるっと一周してくれるそうだ。。

これは楽しみ!!口笛

今度はいい席取りたいなぁ。。


と言う事で…

続きはまた次回!ウインク



ではではまた!
後程ーポ!!