我々のように、釣りに心を奪われてしまった人間は、
知らぬ間に少しだけ、世界の見え方が変わっている。
水辺に立ち、風を受け、光の揺らぎを眺めていると、
自然はあまりにも静かで、あまりにも無関心だ。
生命は呆気なく、そして美しい。
魚は生きるために泳ぎ、
こちらは生きている実感を得るために糸を垂らす。
そのやり取りの中で、
生と死の境界線が、思いのほか薄いことを知る。
そうしているうちに、なんとなく気づいてしまう。
この世界は、絶妙で、不確かで、
自分が右往左往しようがしまいが、
淡々と回り続けているということに。
だからだろうか。
目の前の出来事の多くが、どこか遠く感じられる。
怒りも、焦りも、競争も、評価も。
水面を渡るさざ波のようなもので、
やがて消えていくものに思えてしまう。
そのとき流れている空気に、自分をそっと置いていく。
抗わず、逆らわず、ただ漂うように。
「あなたは不誠実だ。」
つい最近、職場で言われた言葉だ。
「傷ついてもいいから、本音で話してほしい。」
その一言に、私は少しだけ動揺した。
本音とは、何だろう。
私はあまり本音を語らない。
いや、語らないというより――
そもそも自分には“本音”と呼べるほどの大層なものが
あるのかどうかさえ、よくわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあるとすれば。
私にとって、釣り以外の事柄は、
極論を言えばどうだっていい。
いかにしてその場を無難にやり過ごし、次の釣行までを繋ぐか。
それ以外の時間は、どこか「無駄」な余白のようにすら感じていた。
仕事も、世間体も、人間関係も、
もちろん無視して生きられるものではない。
けれどその多くは、
「どうやってやり過ごすか」を考える対象であって、
心から向き合う価値を私には見出せない。
そう考えている自分に、
あの言葉が引っかかった。
もしかすると私は、
「釣り以外は暇つぶしだ」とどこかで決めつけ、
すべてをやり過ごす姿勢で生きてきたのではないか。
その思考こそが、
本当に望んでいるはずの
“毎日釣りに行ける人生”を
遠ざけているのではないか。
やり過ごすことに慣れすぎて、
自分の心までも、やり過ごしてはいないか。
いっそ正直に言ってしまえばいいのかもしれない。
「いや、自分、釣りのことしか考えてないんで。」
そう笑って言えるくらい、
自分の偏りを受け入れてしまえば、
何かが変わるのだろうか。
私たちは子どもの頃から、
親の言うことを聞き、
学校の言うことを聞き、
社会の“べきだ”を飲み込みながら生きてきた。
人間関係はこうあるべきだ。
仕事とはこう向き合うべきだ。
努力とはこういうものだ。
その“べきだ”が積み重なり、
いつしかそれを「自分の本音」だと
思い込んでいるだけなのかもしれない。
だが釣り人は、少しだけ厄介だ。
水辺に立ち続けるうちに、
自然という絶対的な矛盾の中に身を置いているうちに
諸行無常を体で知ってしまう。
昨日いた魚は、今日はもういない。
釣れた理由は説明できず、
釣れない理由もまた、説明しきれない。
絶対的な正解などなく、
価値観も理屈も、
水に浸せばすぐに溶けてしまいそうに思えてくる。
そうなると、
世の中のルールや評価基準が、
どこか滑稽にすら見えてくる。
その結果、
第一前提にある「自分の本音」以外は、
ますますどうでもよくなっていく。
周りから見れば、
それは“不誠実”や“適当”に映るのだろう。
では、どうすればいいのだろう。
心と折り合いをつけるのか。
それとも折り合いなどつけず、
ただ本音に忠実に生きるのか。
そのわずかな差が、
今の自分の立ち位置を形づくっているのかもしれない。
本音という魚は、
いつも水面下にいる。
見えているようで、掴めない。
追えば逃げ、
忘れた頃にふと気配を見せる。
もしかすると私は、
まだその魚を本気で狙っていないのかもしれない。
ただ一つ言えるのは、
次に水辺に立つとき、
少しだけ、自分の心の奥を覗き込んでみようと思う。
竿先の震えだけでなく、
自分の内側の震えにも、
きちんと向き合いながら。
それが“誠実”というものかどうかはわからない。
けれど少なくとも、
釣り人としては、
悪くない姿勢のような気がしている。
シーズンイン予定まで41日