JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。


今週は、世界的指揮者・小澤征爾による自伝的エッセイ『ボクの音楽武者修行』より、一部編集してお送りしています。


今夜は、その最終夜。


1959年、日本のスクーターを宣伝する目的でフランスに渡り、ブザンソンの国際指揮者コンクールで優勝したばかりの若き小澤は、秋からずっと、冬に備えた移動手段として車が欲しいと思っていた。


しかし小澤は、スクーターの知識はあっても、フランスの自動車免許どころか、日本のものさえ持っていなかった。


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パリでの教習は、初めから道路上でやる。


ハンドルを握ると、初めはヨタヨタしたが、それでも4回ぐらいで試験を受けさせてもらえたたのは、まあ出来のいい方だろう。


受験の通知は、


「パリの指定の道の角に、何時に集まれ」


というハガキが来る。


出掛けていくと、5〜6人、得体の知れぬ男女がたむろしている。


それが、試験官なのだ。


日本の試験の事を想像して行った僕は、ちょっと驚いた。


しかし、いかにも自由の国フランスらしい。


試験は5分ほどで終わり、あっけなくパス。


その日に、免許証をくれた。


その頃、僕はトゥールーズという所で、連続放送演奏会をやる事になっていた。


フランスの南、ピレネー山脈の麓で、スペインの国境に近い所だ。


それで、免許証を早速利用するために、高校時代からの友人でパリに住む江戸京子さんの新車を借り、パリを華々しく出発した。


今から考えれば、誠に乱暴な話だ。


東京〜神戸間くらいの距離を、自動車のハンドルなんて、大して握った事がない僕がやろうというのだから。


早朝のパリを、緊張と共に出発した。


何かのレースにでも出場するような、興奮があった。


オドオドと左右を注意しながら、市内を抜けた。


そのせいか、パリの街がいつもより2倍も3倍も大きくなったように感じられたのには、我ながら苦笑した。


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やがて、オートルートと呼ばれる自動車専用路に出た。



[オートルート]


スクーターでは何度も通ったが、自動車だとだいぶ感じが違う。


景色まで違うみたいだ。


周囲の車が飛ばすので、その方にばかり気を奪われ、景色を楽しむどころではない。


大体、自動車にはガラスや鏡や計器が多くて、スクーターのようには周囲の景色を楽しめないという事を知った。


花が咲いていても、匂いのやってくるのが、どうもスクーターよりは遅いようだ。


しかし、具合のいい点もある。


雨が降っても、濡れない事だ。


また、ブレーキを踏んで止まっても、スクーターのように片足を踊り子みたいに派手に突ん出して、ひっくり返るのを防ぐ必要が無い。


スクーターだと、いかにも地べたに這いつくばってる感じだが、自動車なら胸を反らしていればいい。


その日は、谷間の村境にあるホテルに泊まった。


食後、ゆっくりコーヒーを飲みながら、地図を眺めた。


随分乗ったつもりだが、まだ全行程の3分の1しか来ていない。


明日中には目的地に着き、明後日は、朝からオーケストラの練習をする予定になっている。


これでは、間に合うかどうか分からないと思うと、少々慌てた。


それに、ハンドルをガッチリ握っていたので、手が震える。


翌日は、いくら行っても見えるのは、丘ばかり。


上ったり下りたりの連続で、いささかうんざりしてきた。


その気持ちが自動車にも通じたのか、突然妙な事が起こった。


真っ直ぐ走ろうと思うと、脇の草むらへ突っ込むのだ。


くたびれた馬じゃあるまいし、草を慕う理由も無いはずだ。


念のため、車を停めて前の方を覗いたら、片方の前車輪の空気が半分抜けている。


これで車体のバランスが崩れ、横道へ逸れたのだ。


しかし、ハプニングはこれだけでは、終わらなかった。


【画像出典】