『アラビアのロレンス』(原題:Lawrence of Arabia /1962年イギリス/227分)
監督:デヴィッド・リーン
脚本:ロバート・ボルト、マイケル・ウィルソン
製作:サム・スピーゲル
音楽:モーリス・ジャール
撮影:フレディ・ヤング、ニコラス・ローグ
編集:アン・V・コーツ
出演者:ピーター・オトゥール、アレック・ギネス、アンソニー・クイン、オマー・シャリフ、ジャック・ホーキンス、アーサー・ケネディ、アンソニー・クエイル、ホセ・フェラー、クロード・レインズら
100点満点中82点
古い作品なので、「二の足を踏んでいる」方、最近作に物足りなさを感じている方にお勧めの作品です。私は、時々観たくなるので、そんな方々に勧めたくって、今回、記事にしてみました。
実在したイギリス陸軍将校トーマス・エドワード・ロレンスが主導したアラブ独立闘争を描いた歴史映画です。第35回アカデミー賞のうち、作品賞、監督賞、撮影賞、美術監督賞、音響賞、編集賞、作曲賞の7部門の賞を獲得しました。
*アラブ独立闘争:第一次世界大戦中、オスマン帝国からアラブ人独立と、南はアデンから北はアレッポに至る統一アラブ国家の樹立を目指して、メッカの太守(シャリーフ)フサイン・イブン・アリーが起こした戦い。
ハーシム家が主導するアラブ諸部族は、イギリスの支援を受けて中東各地でオスマン帝国軍と戦い、その支配からの脱却には成功した。しかしアラブの地はイギリスやフランスによる委任統治領となり分断され、統一国家を作って独立することはできなかった。(WIKIより)
*トーマス・エドワード・ロレンス:1886年8月16日~1935年5月19日(享年46歳)ウェールズ、トレマドック出身の英国軍人。イギリス陸軍、イギリス空軍に所属し最終階級は中佐。1916年10月、外務省管轄下のアラブ局に転属させられ、休暇扱いでアラビア半島へ旅行しているが、これはオスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者を選定し、独立戦争を指揮・支援する非公式の諜報任務であった。
この「休暇旅行」と称する軍事活動の一部始終が本作品の骨格となっています。多少史実と違うところはあるようなんですが・・・
監督のデヴィッド・リーンは『戦場にかける橋』(1957年)、『ドクトル・ジバゴ』(1965年)、『ライアンの娘』(1970年)などを撮った英国出身の監督で、ステーヴン・スピルバーグ、クリストファー・ノーランら多くの監督に多大な影響を与えた人物です。
今作は、冒頭からショッキングなシーンで始まり、この主人公の数奇で、破滅的な人生を暗示させます。
主人公の「トーマス・エドワード・ロレンス」を演じるのは、ピーター・オトゥールで、劇場作品に出始めてからわずかでこの大役に抜擢されました。きれいなブロンド髪と青い目、白い肌、整った顔立ちが、思わず“美しい”と見る者にため息交じりにつぶやかせる程の魅力的な青年です。この時、30歳前後。それ以前は、シェークスピア劇で舞台中心に活動していました。数々の名作映画に出演しましたが、2012年7月10日、(もちろん存命中にも関わらず)突如、俳優引退を表明しました。
今作では、使命感と独特なナショナリズムに突き動かされ、例え一瞬でもアラビア人になりきった英国軍人「ロレンス」の苦悩、希望、絶望を見事に演じ切りました。

共演のオマー・シャリフは、ハリト族の戦士「シャリーフ・アリ」役で、文化・習慣・風習の違いから、当初、「ロレンス」と反目しますが、彼の独特の正義感とアラブ人よりのナショナリズムや人間性に触れ、「ロレンス」とハリト族の王子「ファイサル王子」とのパイプ役、また、近代化しはじめるハリト族の軍事活動を指揮する「ロレンス」の参謀として、彼を支えます。
ハリト族の「ファイサル王子」は、英国の名優アレック・ギネスが演じ、ロンドン出身ながら、アラブの一種族の王子役を“ハマった感”たっぷりに演じ、“高貴な”ムードを漂わせて、違和感なく鑑賞者の前に登場します。
また、前半最大のエピソード「要港アカバ攻略」で重要な役柄を演じるところから登場するハウェイタット族の族長「アウダ・アブ・タイ」は、アンソニー・クイン(1915年4月21日~2001年6月3日:享年86歳)が演じます。
彼はこの頃45歳ほど。アイルランド系メキシコ人の父、アステカ系メキシコ人の母を持ち、回ってくる役柄はインディアン、マフィアのボス、東欧系移民、メキシコの革命家などエキゾチックなものが多かったようですが、1956年の『炎の人ゴッホ』のゴーギャン役でアカデミー助演男優賞を獲得したあたりから名優の仲間入りを果たした感はあります。今作では、豪胆でありながら狭隘な価値観しかもたないアラブの族長を好演しています。
(あらすじ)
一台のオートバイにまたがりイギリスの田舎道を疾走する金髪の男性。あまりの高速走行のため、前方に現れた自転車の乗った二人を避けきれず、激しく転倒。帰らぬ人となる。その日は、1935年5月13日。英国陸軍将校「トーマス・エドワード・ロレンス」の亡くなった日である。彼の業績は偉大であったが、その評価は人によってまちまちである。
1916年10月、英国陸軍エジプト基地勤務の地図作成課少尉の「ロレンス」は、風変わりな男として知られていた。アラビア語やアラブ文化に詳しいことから、オスマン帝国からの独立闘争を指揮するメッカの一派スンナ派のハーシム家のファイサル王子に面会して英国への協力を取り付ける工作・諜報任務を受け、休暇と称してアラビアへ渡る。不慣れな砂漠の旅に苦労しながらも、「ロレンス」が、ヤンブーにあるアラブ人の駐屯地に到着すると、そこは近代化されたオスマン帝国軍の襲撃を受けており、「ファイサル王子」が懸命に指揮するもののアラブ人は全く反撃できない状況である。
「ファイサル王子」と面会した「ロレンス」は、英国が二心なく、アラブの独立闘争へ協力することを約束し、「ファイサル王子」からの信任を得る。
「ロレンス」は常識では不可能とされるネフド砂漠を渡り、オスマン帝国軍が占拠する港湾都市アカバを内陸から攻撃する電撃作戦を立てる。反対する「シャリーフ・アリ」らを説き伏せ、ヤンブー・マディーナとタブークの中間にある紅海北部の海岸の町アル・ワジュからアラブ人戦士50人のみを率いることを許され、要港アカバに向かう。アカバの砲台はアカバ湾(紅海)側だけに向いており、内陸からの攻撃には無防備だからで、敵の寝首をかく作戦である。
1917年7月6日にアラブ軍はアカバを奇襲し、アカバはあっけなく陥落する。「ロレンス」はこの功績により、3階級特進の少佐となる。英国側もこの機に乗じて、アラビア半島での権益を一気に拡大しようと、機関銃、野砲、装甲車、そして軍事顧問を投入して「ファイサル王子」の軍団を支援することにするが、一枚岩でない多民族の集団の前途は、生易しいものではなかった。「ロレンス」の苦悩が続くこととなるなるが、彼はこの後、どんな活躍をするのであろうか?













