【繊細・感覚派向け】人の機嫌をとりにいかない! 失礼な人になる覚悟。

こんにちは。

秋らしくなってきましたね。

 

前回は、

他人の期待に応えないをしよう!

という世間の格言とは逆のテーマで

お話しましたが、今回も、

あえて逆行する話をしていきますね。

 

というのも、いわゆる世で言う

「○○たるべき」ものは

真に受けてしまうと、

 

繊細さんや感覚派の人たちにとっては

肌に合わず、合致しないどころか

むしろ毒にさえなりかねないかも、、

と気づき始めたからです。

今、時代も、

定説や常識という万人共通的な型から

個々の多様性の認知受容に進み始めて

これもごく自然なことなのだと

感じておりますが。にやり



といういことで、

 

繊細でも、感覚派でもない方には

必要ない話かと思いますので

ピンとくる方だけ、読み進めて

もらえればとおもいます。
 

****

 

「人の機嫌を取りに行かない!

失礼な人になる覚悟」

 

というのは、

 

どう思われるか・・・

に意識を注ぎこまないでよい

という生き方へのシフトです。

通常、人は利己的で自分さえよければ

という自我を大小もっていますので

他人のことをあまり気にかけないで

自分の都合で推し進めていくことが

多いかと思います。

 

だからこそ、利他の精神が必要と

言われるゆえんですが、

 

繊細さん・感覚派はもともと

自分より他人、周りを自動感知して

それに適応した自分を振舞っていく

傾向があるかと思います。

 

※これ、あくまで傾向ですし

繊細さんや感覚派であっても

そうとは限りませんし、

程度の差はとうぜんありますよ。

 

で、

その自動感知能力の高さ、

自動発動の常時フル活動により

いやでも他人の反応が気になってしまい

 

その表情や間合い、もろもろから

感情を読み取り、察して

しかもそれをまるで自分事のように

感じ取ってしまう性質があるのです。

 

自他一体化といいますか、

他人との境界線が極めて薄くなりがち

な反面、情に熱い、共感力たかく

自分事のように感じられる

という特性も発揮してます。

 

 

それはあくまで特性にすぎないですが、

自他一体的な感覚のもといつの間にか、

他が主となり自分が従となる位置づけ

に無意識にすり替わってしまうと

 

相手を勝手に抱え込んでしまう視点に

なってしまうのです。

 

すると

自分が放った言動で相手が

気分を害さないか、傷ついてないかが

過剰に気になってしまう。

 

そうやっていると段々、

常に自分の本心、伝えたい本音よりも

どうやって相手を傷つけないで伝えるか、

気分を害しないで返答したらよいか、

振舞ったらよいかを終始気にかけ始めてしまう。

 

で、いつも気が付くと取り越し苦労、

やってしまったことの振り返りを

いつまでもぐじゅぐじゅと反省会やっている。

 

大なり小なり、

そういう傾向があるように感じます。

 

なのにその実その割には、

相手の気分害してしまったり

やらかしてしまってたりして(笑)

意味ないじゃん。。

あ、このへん、せんちょー自身の話を

基にしてますけどね💦

 

これって、

普段から自分に矢印向けてる人なら

他人のこと考えましょう!

なんでしょうが、

 

他人に(外に)向けてやってきた人は

他人に矢印むけましょう、ではなく逆で

他人にむけるのを「やめましょう!」

なんですよね。にやり

 

他人の機嫌損ねてしまう、

気分害してしまうことも

傷つけてしまうことも

肚くくって、覚悟して受け入れる。

 

それって、害を与える人、

ひどい人になってしまう自分も

役として引き受けるってことです。

 

概して、繊細・感覚派の方は

良い人(ぶってる)人が多いように

感じます。

 

せんちょーも外面はよくて

良い人ぶったりしてます。

 

が、ぶりなだけで、やってる割には

激昂してしまったり、地雷踏んだり、

失礼なことしてしまい、逆に激昂されたり

って迷惑かけまくってます💦

 

ほんと、ちぐはぐな勝手気苦労

みたいなもんで、

 

おまけに、良い人であろうとすればするほど

目の前に、ひどい人、あくどい人や

失礼な人たちが登場してくるのが

この世の仕組みです。

 

まあ、このへん色々解説が必要なんで

今日は、機嫌とらないを進めていきますが

 

結局は、他人を抱え込んでいる時って、

他人の力、自立を信用していないし、

自分の力、自立も信用できていないってこと。

 

 

相手がどう解釈し、反応してふるまうかまで

自分がコントロールしようとすること自体、

お門違い。

 

そのへん、せんちょーもようやく

実感としてつかめ始めてきたのです。

 

だって、相手がどう捉え、どう振舞うかは

どうあがいたって相手の権限で相手のもの。

 

だから
どう思われることも相手の自由なのだと、

いかなる反応も覚悟する。
どんなに理不尽や予想外であっても

100%相手の解釈の権限と認め入れる。

それがこちらにとって、

望ましくなかろうがどうであろうが、

どんなにクソみたいな解釈に思えようが、

 

その人が、そう捉えたことで

そのような言動(反応)をとったのだな。

それをを自らの意思で行ったな。

 

という主体的意志と行動への尊重です。

それはすなわち、

人には皆、自分の人生

(その解釈と振る舞い)

100%権限と自由があり、

責任があるという

「自立の力」を信頼して

いる視点です。

よって、
相手を怒らせてしまったなら、

怒らせてしまった自分を責めるのではなく、
 

相手が感情を侵害されたと捉えて、

怒るという反応を「自ら選んだ」のだなと、

その「解釈と言動の選択」を尊重し、

その事実を甘んじて受け入れる。

「すべてが当人が望み選んでしてること」

 

この視点に立つならば、

相手が怒ったのは私の責任ではなく、

相手の主体的意志で行ったもの。

自らの責任です。

私に相手の機嫌の責任をとることなど

できないのだから、

相手が怒ったことに対して、

自分を責める必要もないのです。

 

相手の機嫌、反応は100%、

その人の責任と権限で

主体的に採用されているものなのです。

 

だから、顔色はみない。

ご機嫌もとらない。

失礼であってもよい。

 


自分の「機嫌、言動」の

「責任と権限」は、100%当人にある、

という視点は、

 

その人は

「自分の機嫌を取ることができる

自分でなんとかしていける人」

と信頼していることでもあります。


だから、もうこれからは

人を傷つけてしまうかも、、と

過敏に恐れなくてよい。

 

不快にさせてしまった、どうしよう滝汗

と過剰にうろたえなくてよい。

 

そう思われてしまう

(思わせてしまう自分)

ことへの異常なまでの恐れが、

 

「人を傷つけないようには

どう言えばよいだろうか」とか、

「怒らせてしまったらどうしよう」と、

 

勝手に怯え身構え、

そこに莫大なエネルギーを

注ぎ込んでしまっていることに、

気づかなければいけません。


相手を不快にさせてはいけない

というのは道理的にはその通りですが、

その言葉に寄っかかてしまう深層心理は、

 

相手は自分の機嫌も取れない人だから、

他人(私)がとってあげなきゃいけなくて、

傷つけてしまったら、立ち直れない

弱くてかわいそうな人だと、

 

無意識に見くびってしまっていると、

自覚する勇気が必要なのです。
 

人を傷つけちゃいけない、怒らせちゃいけない、

これは私の責任(罪)だと勝手に抱え込み、

勝手に疼いているだけなのかもしれない。

同時にそれは、

「私は加害者には絶対なりたくない!

悪者になんかなりたくない!ゲロー

ひどい自分にはなりたくない!

 

という悪者・加害者側、加害行為への

強烈な否定、抵抗であり、

 

私は良い人ではありたいけど、

悪い人側はやりたくない、という

自分の半身(姿)への抗いの現れ。

 

それは

自分という「人間の側面・可能性」を

直視しないで目を背けた

自分への責任放棄とも言いえることなのです。

人を傷つけ不快にさせ迷惑かける人は、

悪い人困った人で忌むべき人、という

固定観念が社会にはあるので、

 

そっちであってはならない、なりたくない

という恐れが出てくるのはやむを得ないのですが、

自分がどう振舞っても、他人がどう捉えるかは、

完全に相手の自由と権限という視点においては、

こちらに力はない。

 

傷つけるつもりがなくても、

相手が傷ついたと感じることはあるし、

迷惑だと捉えることもある。

 

逆に、同じことをしてもそうでない

ときもあるのですから、

それって、完全にその人の都合ですよね。ニコ

相手に主導権があるものにに対して

こちらが責任をとることなど当然できず、

自分の思惑通りに収め続けることなど不可能なのです。

 

なのに、

意にそぐわぬ反応は欲しくない!

と身構え、思慮をあれこれ巡らす

ことに過剰な労力を浪費して

消耗してるびっくり

だから、腹をくくる。

 

自分の言動、振る舞いによって

相手を傷つけてしまうことも、

甘んじて受け入れる。

 

それによって自分が加害者側、

悪者側に回ってしまうことも

覚悟し引き受ける。

 

ひどい人、とんでもない非常識な人に

なってしまうことも、そういう人だと

されてしまうこともある、と含みいれる。



すると、いままで身をすくめながら、

思いめぐらせていた重苦しさが

解かれ、

 

本来意識を向けるべき

「自分のやりたいこと」に

大事な時間とエネルギーを

注ぎ込んでいけるようになっていくのです。

もちろん現象としては、

人を不快にさせたり

傷つけたりしてしまったら

それはそれで、その事実を直視し、

それに応じた対処をしていく必要があります。

 

相手の機嫌や反応は相手のものですが、

 

自分に降りかかってくることは

すべて自分のもの。

「どう捉える、どう振舞うか」は、

100%自分の責任と権限です!

とるべき責任は、ここ。

 

だからといって無理に強がり平気ぶる

必要はなく、感情が揺さぶられたら、

動揺し疼く自分もしっかり引き受ける。

 

そして悪者(加害者)に思われ、

されてしまうこともしっかり引き受ける。

相手がそう捉え、振舞うことへの尊重です。

 

※相手の要求をぜんぶ飲みましょう、

ということではありませんからねニヤリ

あくまでも、

 

人の機嫌・反応の責任は当人、

私の機嫌・対応の責任は私、

という自覚のもとに、

 

現状を直視し、自分が取るべき対処を

施していくのみと、そこに腹をくくり

自分の人生に責任をとっていくのです。

 

ひどい人となることから

目を背けない。

 

すると繊細さんや感覚派の人は

本来の光を発し始める。