【REAL-ME!】人の期待に応えない!自分の期待に応えて、人のため。

 

久しぶりの投稿に

なってしまいました💦

 

本当なら、前回のテーマ

「三位一体」、素の我

の続きをしたいのですが

 

すみません、

ちょっとすっ飛ばしますね。

 

 

この3週間ぐらいの間に

恐れに立ち向かう、受け容れる、

という心持ちに至りまして、

 

色々やることほったらかして

ひたすら自分の門(ゲート)に

むかって没頭しておりました。

 

おかげで今ようやく

自分の門の前に立ったのだと

感じております。

 

 

そもそも

このブログをなんのために

書き始めたかというと

 

「本当の自分の声で

生きていく人を目覚めさせるため」

 

という、感じではありましたが

 

いつの間にか

真理や自分探究のつづり、という、

 

自分のための位置づけに

なっておりました。

 

それが来るところまできて

「自分の門」の前まで

来たのですから

 

これからは外に向かって、

届けるべき人に伝えていく

ことになるでしょう。

 

ということで、今日のテーマは、

 

「人の期待に応えない!」

自分の期待に応えて、人のため

 

です。

 

基本ぼくたちは

ビジネスだろうが、日常だろうが、

 

人のために立ってなんぼ

利己、独りよがりはいけない

 

という視点が共通の根底にあるかと

思います。

 

 

実際、ビジネスや起業で成功

している方々のお話をきくと

ほぼこういう話になります。

 

 

が・・・、です。

 

 

この話を「真に受けない方がよい」

人々がいます。

 

 

自己犠牲が強くてきた方々です。

※せんちょーも含みます。

 

いまはやりの言葉で言うと

繊細さんとか、感覚さんという人々も

おおく含むとおもいます。

 

 

この自己犠牲ですが、

言葉が大げさなもんだから

 

当の本人はそのつもりはなかったり

します。

だけど、明らかに外向きで

自分が後回しになっている💦

 

なのに、その自覚が薄い。

薄々、気づいているけど

そうだと認めたくないから

頑固で効く耳もたず。

 

自分がやりたくてやってるから

それでいいんです!

とやたら強情はる。盲信してる。

 

で、その実そうはいいながら

自分が疲弊していることに嫌気さして、

 

搾取されてる気になるので

相手を悪者にしていき

自分を被害側に位置づけてしまう。

(実際そうなったり、ね)びっくり

 

はたまた

貢献しないと成功できないし、

それに悪い気がして落ち着かないと、

 

過剰に追い込んで、

心身生活ともに支障きたしてしまう。

 

まあ、あるあるですが

 

前向きで、人想いで、本質的で

周りのことを考えるがゆえに

自己犠牲で疲弊してきた人々にとって

 

貢献、人のため、お客さんのため

っていう視点は、実は、

 

ぜんぜん他人軸だったりするわけです。えーん

 

 

おなじ貢献、人のためにとやりながら

仕事も上手くいってる人と、

何が違うのでしょうか?

 

 

せんちょーもここ、ずいぶん

迷い悩み、藻掻いてきたところです。

 

で、気づいたことがあります。

 

 

出来てる人のほとんどは、

もともと客観的、他者目線で

捉えることができる人々。

 

もしくは

とっても利己的であったのが

ある出来事を境に

利他の精神に目覚めてしまった人。

 

そういうできてる成功者の

視点、論調でいうと

 

確かに、

「人の期待にこたえましょう」

「お役にたってなんぼ」

なんです。

 

人のニーズに立たないものは

単なる独りよがりなのです。

 

だから、

相手、お客さんに矢印むけなさいよ

となるわけですが、

 

これが、じつは混乱のもと。

 

 

自己犠牲が強い方々って

そもそもが、周りの反応を伺う

性質をもっている人々。

 

(もしくは環境的にそうなっていった

人々。)

 

 

周りの反応を人一倍敏感に

キャッチしてしまう気質の

 

いわゆる繊細さんとか

感覚派と言われる方々です。

 

(スターシードというのも

こういう人たちが割とおおいですね)

 

 

基本のデフォルトが

他者の表情、反応、雰囲気から

自動感知してしまう性質ですから

 

自分に矢印むけている

というよりは、逆で

他人、外に向けまくっている

わけです。

 

それを

「あなたは自分に矢印むけてますよ!

外に向けてください!」

 

って言われたところで

ピンとこないし、むしろ

ダメ出しみたいになっちゃう(笑)。

 

このへんの感覚は

できてる人や普通の人には

なかなか分からないところ

でしょうから

 

どうしても、

言葉と実感の差異がうまれてしまう。

 

だからこそ、

「人の期待に応えない!」をやろう

に来るわけですが、

 

これって、まあ平たくいうと、

自分軸を取り戻そう、ってことです。

 

人のために、誰それのために、

とやればやるほど、

空回りして、疲弊していくのって、

 

主体性を、自分以外に

預けてしまってるってこと

 

ですから。

 

人の期待に応えたくて・・・

その他人のために・・・

喜んでもらいたくて・・・

 

っていうのは

全然問題ないんですよ。

 

むしろ素晴らしい利点で

望ましいこと。

 

もともと

繊細さんや感覚さんは

そういう他人想いが強い人々

なんです。

 

 

だけど

いつの間にか、生きていくなかで

他人の反応拾いすぎることで

 

他人が「主」、

親や上司が「主」、自分以外が主

 

みたいに主従一体となって

自分と他人の境界線が薄くなり

一体化が起こっていただけ。

 

いわば自分は、

「従者」の位置づけを

死守していたってことです。

 

だから、そういう人々は

 

まず自分というものを

「主」として

取り戻すことが先!

 

なんですね。

 

それが、

「人の期待に応えない!をやる」

ということ。

 

自分軸を取り戻す宣言!

みたいなもんすかね。にやり

 

 

そうやって

 

自分を取り戻し

自分を「主」に据え始め出すと

 

 

実は面白いことが起きていくのです。

 

いままでは

他人のためにやろうとしていたことが、

 

実はそれが

 

(人''▽`)ありがとう☆

と喜んでもらう見返りが欲しかった

 

自分のエゴだったことに

気づき始めます。びっくり

 

 

見返り要求のために

やってあげていたこと。

 

「あなたを想って

あなたのためにやっているのよ」

 

 

ご主人様を喜ばすことで

ご褒美をもらえる従者。

 

そうしないと

生きていけないから

という恐れ。

 

あなたのため、といいつつ

起点は、わたしのため。

 

従者の恐れ、です。

 

 

そんな従者の意識から、

主人の意識を取り戻し始めると

景色が変わり始めます。

 

 

「あ、自分を喜ばすことより

嬉しいものがあるんだ!」

 

「人が喜んでくれることって

こんなに嬉しいものなんだ!」

 

という素直な感覚です。

 

これって

根源的な喜び!

 

 

逆説的パラドックスなんですが

 

あなたのためではなく、

自分の喜びとしてやっていること、

 

なんです。

 

するとこれって

大元の歓びですね。

 

そうなると、

 

私の歓びは

人に施してお役に立ち、

喜んでもらえること。

 

だから

私が勝手に

自分の主体的意志で、

やっていること

 

ってなっていく。

 

 

相手が喜んでくれるか

どうかにはこだわらない。

 

だって

相手の都合、相手の状況が

あることだもの。

 

 

ニーズにあってなかったら

喜んでくれないだろうし、

 

合致してても

状況がマッチしてなければ

そうならないし

 

だけど

そうしていくこと自体が、喜び。

 

相手が喜ぶかどうかは、相手のもの!

 

それって

相手が「主」であることも

受け容れてる感覚。

 

 

自分が「主」だという

意識にくると

 

相手も「主」なのだ、

という意識になってきます。

 

 

 

そうなったときに、

 

全ては自分の判断と責任のもと、

自分のやりたい(喜ばせたい)

 

をやっていくわけですから

 

変な自分のこだわりなんか

すっとんでますわ(笑)

 

 

で、

 

「自分の期待に応えるため」、

として

 

「人の期待にこたえない」

をやっているのですから

 

「自分の期待に応え」

たくて

 

「人の期待に応える」

をやり始める。

 

 

そのために、

じゃあどうやったら

喜んでもらえるようにできるかな?

 

って喜んで追究していく。

 

結局

「人の期待に応えたい!」

となっているし、

応えられる!になっていくのです。

 

 

なんか

言葉がややこしいですなあ。💦

 

 

えっと要するに、

 

繊細さんとか、感覚さんの多くにある

 

周りの反応、心情をキャッチしやすい

共感しやすい、という特性は

 

主体性が薄いときは、欠点として

従者の状況を反映してしまいがちですが

 

主体性を取り戻すと、

根源的喜びとして

発動しはじめる!✨

 

ということです。

 

すると

自分を活かす喜び、

人を喜ばす喜びとなり

 

それがまた

自分の喜び!となる

 

という相乗効果がうまれて

くるのです。

 

 

長々かきましたが、

 

じゃ、どうやったら

主体性を取り戻せるのか

 

ということですが、

よく言うのは自己受容ですが

これは確かに必要です。

 

ですが、せんちょーにとって

自己受容だけでは

門の前には、立てませんでした。

 

 

なぜなら、

門を直視できなかったから。

 

門がどこにあるのか

見ようとしなかったので

見つけられなかったのです。

(見なかった)

 

そして、

そこに気づき自覚し

 

 

恐れを直視した。

恐れに真っ向から向き合った。

 

都合悪きものも全て

「来るなら来い!」

「ドンと来い!」

と構えて、迎え入れる覚悟した。

 

 

肚をくくったのです。

 

 

 

怖くてつむっていた目を

ガッ!と見開いて

前を見据えた時、

 

そこに門がたっていました。

糸島の箱島神社。

禊の沐浴してまいりました。

 

まあ、そんなわけで

門の先に進んでまいります。

 

 

沐浴前のこわばり。

 

足つけて終わろうかと思ったけど

泳ぐことにしました。

 

すっと立ちました。

 

恐れは、排除するものじゃない。

あらゆる負も自分の一部。

全てを受け容れる。

 

大我(大元)と、

自我(肉体もつ個の我)と、

素の我(意識である魂の我)と、

 

一体となる。

三位一体。