【REAL-ME!】対価交換も要らない!

 

先週は月曜が

九州大雨で水害、

 

娘学校も休校で

てんやわんやでした。

 

特に地域一体、

大きな被害もなく

無事すんで

ほっとしております。

 

 

さてさて、前回、

いま資本主義の流れとは別に

ちがう流れが脈々と流れ始めている、

 

とうようなことを

話したかと思いますが

 

せんちょー自身、そう話ながらも

分かったようで、

よく分かってなかったりも

するのです。

 

 

ですが、やっぱり

そうなのだと感じるところが

ひしひしあるので

 

こうやって語りながら

より確信を深めていってる

という感じですかね。

 

 

ということですが、

 

せんちょーにとって

資本主義が嫌いなのではなく

それはそれであってよいもので

 

その恩恵はしっかり預かっているので

ただ、なじみがしっくりこないなあ

という位置づけで
 

あくまでも好みではないという、

自分の感覚的な主張です。

 

それそれのものを否定する

必要もありませんしね。

 

 

で、今日の気づきとしては

もっというなら資本主義、といよりは

 

二極対極の捉えどっぷりだった

世界の観方しかなかったのが

 

一元一極の捉えを基軸とした

捉えの世界に移行していく時代で

それを選べるようになってきた世界

に入ったんだなあ、と感じております。

 

 

こうやって、

まったく異なる世界観が

より明確に色濃く分かれて

流れ、進み始めている

 

という感覚。

 

 

いままで当たり前にある

ものの捉えとしては

 

・何かを得るには、

それに相当する対価が必要で

 

・価値や意義、労力などを

もってして必要なものが得られる

 

というカタチでの成り立ちでした。

 

ビジネスとしてはそれが

特に明確顕著で

 

いかに価値提供するか

いかに差別化を図るか

いかに価値を示すか

 

それが価値に見合ったものかどうか

いかに役割を発揮するか

労力、知力をはらったか

それに見合ったものが得られたか

 

といった形ですね。

 

それを突き詰めていくのが

何かと何かが対になっている

対極構図。

 

二極対極の構図。

何かと何かのセット。

 

(これをピラミッド型構造に

していくのが現資本主義!)

 

僕たちは

いままでこの在り方に

慣れ親しみすぎていて

 

 

内側の深いところでは

「いやいやそれは表面的なもんでしょ」

って分かっているはずなのに

 

どうしても捉えるベースが

その二極対極の土台にあるため

何かと何かをくっつけてのセット構造

のまま観ちゃってるように思うの。

 

ねじれが生じてるというか。

 

たとえばね、

 

・みなが一つ(ワンネス)とか

・存在だけで素晴らしい(価値)とか

・やりたくないことやめて、好きなことだけしようとか

 

そう言われたところで

視点の根っこが対極構造だから

どうしてもそう思い切れないのよ。

 

すくなくともせんちょーは

そうだったのだと思いますね。

そのもどかしさにいました。

 

 

でも、ふと今日思ったのです。

 

 

対価ってさ、

 

対となる価値

のことだよね。

 

ってことはさ、

対となる指標、基準がなければ

価値を見出せない構図だよね。

 

 

価値を見出すためには

それを示す何かが必要という土台。

Setが必要。

 

その土台のもとに

自分の価値が絶対だ!って

言ったところで

 

そこに絶対である何かを

引っ張ってこようとするわけで、

それ自体がトリックそのもの。

 

 

対極の世界って

対がなければ自分がないって

世界だから

 

絶対の自分!って

思い込もうとするけど

その構図上では思い込めないのよ。

 

思い込むためのセットを

必要とするから。

 

物事には対があって、比較があって

基準に応じるものがあって、

自分というものを位置づける。

 

物事には因果が合って、

原因があって、結果がある。

 

それを紐づけてあーだのこーだのいう

そういう捉えだしね。

 

だから例えば

お金があれば、心が満たされる

っていう因果が生まれて

必死にお金を得る、貯めることで

それを補おうとするわけだけど

 

ほんとは無茶苦茶不確かなもんだから

絶対たりえない。

 

内側は、

「いやいや、それちゃうよね」

って言ってくるけど

頭はその小声を聞き取れない。

 

だけど

そこじゃないよと

分かってる先駆者さんたちは

 

「お金があるから、安心できるんじゃないですよ。」

「これは逆ですよ!」

「心が満たされるから、お金も入ってくるんですよ」

 

と言葉にしていってくれるわけだけど

そうだと思えど、思い切れず。

 

そりゃそうさ!

わかるはずがない。

 

対極・Set構造の土台で

この言葉を捉えても

そうは思えないのだね。

 

因果を生み出す仕組みから

逃れられてないからね。

 

 

こんな言葉すら

本質ではないから。

 

これも言葉にすぎないもの。

 

 

本質的には

 

心が満たされてるから

お金が入ってくるんじゃない。

 

それは言葉。

 

満たされる、という言葉が

満ち欠けの対極だもの。

 

そういう満ち欠けの満ちる

じゃなくて

 

 

「私は

私だから

私なのだ。」

 

「よって私は

私でよいのだ」

 

「だって、

これが私だから」

 

「これも私で

こんな私も私」

 

「どうであっても

この私が私なのだ」

 

 

という

総受容、完全受容

完全肯定のもとにある

意識状態。

 

 

受容できていない自分すら

 

「これも自分だし

こんな自分もいてよいよね」

 

 

と認め入れられている私の

意識状態に立った時

 

 

「あ、私が絶対価値だった!」

と気づく感覚のもの。

 

 

というか

この感覚にあるならば

もはや価値という概念すら

ぶっとんで消えている。

 

そもそもが価値でしかなくて

絶対価値でしかないもの、

だもの。

 

そこに価値云々というものが

ついてこないのです。

 

 

といいつつ

この地球界に住んでいるから

やっぱり価値という概念も

くっついてくるんだけど

それもそれであってよいしね!

 

 

あえての二極対極の世界として

この地球もあり、

その地球にわざわざ来たんだもの

 

っていう感覚と共にあるから。

 

で、

その本来持っていた

内なる感覚が芽生え始めると

 

 

本来の絶対価値感覚をもったまま

この疑似的な対価感覚に対しても

 

「それはそれでありだよね、」

という受け容れ体勢が

生まれてくるのだね。

 

 

なんだか支離滅裂だが

つづけますよ。

 

うんとね、

 

好きなことやろうとか

やりたいことやろうとか

っていうのって

 

好きなこと、

嫌いなこと、

ってあえて比較しないと

出てこないでしょ

 

 

でも実はそれって

思考的に無理くり絞り出してきてる

好きとか、やりたいかもしれない

(ほんとの好きではないかも)

 

ってことなんだ。

 

 

本当の

好きなこととか

やりたいことって

 

 

自分じゃ気づいてない

ぐらいのことなんじゃないか

って

ふと思ったの。

 

 

当たり前すぎて

当たり前にやりすぎてて

 

それが好きという概念もなかったもの。

 

 

それをあえて好きとか

やりたくてやってるというなら

そうなんだけど

 

 

本人からしたら

その感覚すらないもの。

 

 

だから、好きなこと

とか言われても

それが浮かんでこなくて

 

 

他のちょっと思考雑念が

入ったマインドの好き、やりたい

が表にでてきちゃう。

 

それって、嘘ではないけど

自分に言い聞かせてる装いも含んでたりするわけ。

 

(認めたくないだろうけどね)

 

もちろん、それもそれで大事な好きだから

それはそれでもちろん、よんですよ。

 

 

あ、これ自分に向かって書いてることですから(笑)

 

 

なので今まで

自問自答して出した「好きなこと」

「やりたいこと」って

ぜんぜん形になっていかなかったんです。

 

 

むしろやっていくうちに

苦しくなって嘘くさくなって耐えられなくなって

やめちゃう。。

 

だったので💦

 

 

で、話もどりますが

 

 

自分はこれが自分

 

すべてひっくるめて

これもこれでありなんだ

 

すべて自分のありなんだ

(自然なんだ)

 

という感覚がゴゴゴゴゴーと

芽生え始めてきて

 

 

「あ、対価なんて

要らなかった」

 

って感覚が

湧いてきてるのです。

 

 

お金を稼ぐのにも

対価なんて要らない。

 

 

生きていくためにも

対価なんて要らない。

 

 

自分の生きてる価値を

見出すのにも

意義も責務も実績もいらない。

 

 

なんの価値も意義も労力も

差し出すこともなく

いかなる恩恵も授かってよいのだな

 

 

という感覚です。

 

 

対極の世界からは×(ダメ)

と言われるものすら

それをもってして〇なのだ

 

ダメすら

ダメでない

 

という感覚です。

 

 

 

私は価値である。

なぜなら、私だからである。

 

 

私は意義である。

なぜなら、私が意義だからである。

 

 

これも言葉なので

この言葉に意義も価値もないですね。

 

 

あくまでも言葉。

 

 

どうであれ

この私をもって

最善で最高なのだ

 

 

と捉える意識が発するもの

 

 

それだけです。

 

 

あー、言葉ややこし。