2009年07月15日21:27付 「バカはidentityたる芸術を求める也」について


相変わらず論理的な思考能力が決定的に欠如していることを如実に表わす文章である。


1.遺伝子と同性愛について

同性愛の原因を遺伝子に求める説というのは多数あるので、大尉氏の言う遺伝子犯人説はたしかに有力である。
他方、その他の原因もあり得ると考えられているので、大尉氏の言うような「同性愛の原因はすべて遺伝子」という命題は正しくない。

男女の同性愛の比率が異なることをもって、Y染色体が原因と結論付けるのもセンスがなさすぎる。

たとえば、http://www1.ocn.ne.jp/~kenspage/karadanoshikumi/karadanoshikumi_hataraki10.htmにあるように、「本人の母方の伯父や叔父、従兄弟の中に同性愛者がいる割合は7.5%で、父方の2%以下と比べ、はるかに高率」であることから、「母親から男の子に伝わるX染色体」が問題である可能性も当然にして考えられるのだ。
また、女性のほうが性的マイノリティーであることを告白することに抵抗感が強いという、統計上のエラーについても考慮しなくてはならないだろう。

遺伝子はあくまで「組み合わせ」が問題であり、「男性に同性愛が多いからY染色体が原因」などど単純なメカニズムで物事が説明できるとは、片腹痛いというよりほかはない。


2.アイデンティティーとマイノリティーについて


「マイノリティーであることをアイデンティティーとすること」は、確かに思春期ころにありがちが思想であろう。
なかには、大尉氏のようにいつまでたっても、十代の思考から脱却できない者もいるのも確かである。

一方で、同性愛にしても中絶にしても、「マイノリティーになりたい」という動機を原因とするのはあまりにも乱暴だ。
妄想でストーリーを考えるにしても、「なんらか別の理由で中絶をしたり同性愛者になってしまった。そこで、自己を肯定するために、マイノリティーである自分を『格好良い』と考えることにした。」というストーリーの方がはるかに説得力があろう。
因果関係が逆である可能性のほうがはるかに高い。

宗教とマイノリティーの関係についても、同様に大尉氏の主張は全く根拠がない。


3.指導者と因果関係について

> 芸術家の紹介文は、このような表現が好まれて多用される。
> 「○○先生に従事」「○○氏の指導をうける」
> 人間社会の視点からみると、指導をうけたり従事したことと、本人の実力・素養には何ら因果関係はない。
> 例えば、○○大法学部で元最高裁判事の○○教授の教えを受けようと、司法試験に落ちる奴は落ちる。

さすがに、きちんとした指導者について勉強をしたことのない人間の発想である。
我々の常識からして、「指導をうけたり従事したこと」と「本人の実力・素養」には大いに関係がある。

まず、高名な指導者は人気があるため、そこで勉強するためには、より倍率の高い競争に勝たなければならない。
したがって、大学間でも序列が生まれ、大学内でも指導教官によって序列が生まれるのである。
この時点で、実力との間で「因果関係」はなくとも「相関関係」が認められる。
次に、指導者が高名であることと、その教育の質に相関関係があるのであれば、当然指導を受けた生徒の「実力・素養」との間に「因果関係」も生ずる。

何より大事なのは、現在の学問は極めて高度化されるとともに細分化されており、学者ごとに専門分野が著しく異なっていることである。
したがって、指導教官と本人の専門性、学問的立場等には明確な因果関係がある。
芸術も同様で、多種多様なスタイルが存在するため、指導教官と生徒のスタイルには明確な因果関係が生じよう。

また、法学部の教官の評価を司法試験の合格率で考えようとするのは愚の骨頂である。
法学部は司法試験に合格するために存在する予備校ではない。
ロースクールも然りで、プロとしての法曹人の育成が目的であって、試験の合格が一義的な目的ではない。
大尉氏の議論に基づけば、「良いロースクール」では、司法試験に出題されない法律は一切教えないことになってしまう。

大尉氏は学問の府である大学を予備校の感覚で考えないでほしい。


4.社会的評価と大尉氏の著作について

> そんな芸術家にも、客観的尺度があてはめられる時がある。
> それは、市場に参加したときだ。

大尉氏は、2004年11月に「大東亜戦争を心から正しいと言えるようになる本」という本を出版されたが、全く売れず、早々に絶版になってしまった。
大尉氏の主張する「客観的尺度」に当てはめれば、大尉氏自身は「賢くない」ということになろう。