九州中のパナソニック系列会社の支店長が集まる会議にご挨拶に伺うために、福岡へ日帰りで行って参りました。松下グループは結束が強いのが特徴です。しかも、現九州支店長のH氏は鹿児島出身で、私の中学・高校の先輩ということもあり、お会いできてとても嬉しく思いました。
10分という短い時間ではありましたが、自己紹介兼ねて、この夏の参議院選挙へ挑戦することをご報告申し上げました。ありがたいことです。

$ことら大尉のハート録!

私は、パナソニック創業者:松下幸之助の言葉の中で、最も好きな言葉は「会社は社会の公器である」という言葉です。つまり、会社は資本家の金儲けのためや、株主の財力拡大のためだけにあるのではなく、雇用を生むことで国民の生活を守り、物を生産をすることで国民の生活を豊かにし、そうして得た利益を税金という形で公に納めることで社会に貢献する「公の器」である、ということなのです。
この発想は、労働を美徳とする日本でしか生まれない日本らしい素晴らしい価値観です。

キリスト教を価値観の底辺におく西洋諸国においては、人間はアダムとイヴの子孫で、生まれながらにして原罪を負っているという教えがあります。そのような宗教的寓話から、時として労働は罪を償うための禊であるように捉えられる場合もあるのです。軽犯罪を犯した人に、奉仕活動のような労働をさせるのも、このような価値観からきているのではないでしょうか。(決してキリスト教の批判ではなく、あくまで労働に対する価値観が同一ではないことの一例です。)

しかし、日本人にとって、労働は時に楽しみですらあります。事実、「生涯現役!」などという言葉は、外国人には理解できないようです。私達日本人の歴史は、労働によって人間関係を営み、社会規範を教育・継承してきました。日本人が労働をするとき、私達は必ず個人を超えた公(≒社会)というものを意識する国民性を歴史的に保有している民族なのです。

しかし、最近では「勝ち組と負け組」などという本が出回り、如何にしてビジネスを勝ち残るかなどということばかりがクローズアップされ、労働が「個人の利益追求」のための手段としてしか語られなくなってしまいました。これは、とても悲しいことです。子どもたちも、「大きくなったら何になりたい?」という質問に対し、金銭的基準で持って職業を捉えています。

「経済」という言葉は、元々は「お金の廻る仕組みを表す言葉」ではありません。経世済民(けいせいさいみん)の略で、「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」ことが本来の意味なのです。日本の社会の有り様を、本来の「経世済民」の姿に戻すには、公共心の教育が不可欠だと思います。