福島織部為基は、徳川方と武田方が高天神城を巡って争っていた頃に徳川方にいた武将です。
寛政重修諸家譜や干城録等では「ふくしま」と読みがふられており、福島十郎左衛門等とは違う一族のように見えます。
(ファイルを保存した際に何故か福島十郎左衛門のファイルと勘違いして、福島氏の別資料と思って「今川氏滅亡」の書評に書いた、この福島氏の勘違いでした。お詫びして訂正します。)
一方でこの福島織部は、岡部氏と親戚だった、とされておりひょっとしたら福島(くしま)一族で後で読みを変えたのかもしれません。
さてこの福島織部為基の系図にはその「岡部氏の親戚」の話が書いてあるのですが、これがなんと「高天神城から 岡部太郎兵衛正綱とその弟を脱出させた」話です。
寛政重修諸家譜第2集の福島氏のところから引用すると、結果としてうまく行った旨の記述になっています。
「天正九年遠江国高天神の役に、為基が一族岡部太郎左衛門正綱某その弟掃部某城中にあり。東照宮これをきこしめし為基に命じて彼ら兄弟が死をすくはしめらる。よりて為基矢文を城中に射いれ、落城のとき小旗の印に従いて遁れ去るべしと告ぐ。これによる岡部兄弟死をまぬかるることを得たり」
一方、この岡部正綱は、「太郎兵衛」となっていて、「次郎右衛門」ではありません。どうも同じ時期に二人の岡部正綱がいたらしいのですが、太郎兵衛の方は、「南紀徳川史」に記述があり紀州に行ったようです。
武将で有名なのはもうひとりの「次郎右衛門」の方で、高天神城落城後武田軍から徳川方について、旧武田方への工作に活躍しています。
福島織部為基の家譜は、小牧の陣の際、次郎右衛門の息子の岡部内膳正長盛に同族であったので合力したとの話が続くので、どちらの岡部正綱も同族で岡部元信も同族であったのであろうとの推察できるかと思います。
岡部次郎右衛門正綱の家譜では、徳川家康が駿府にいた時代からの友人で、武田軍侵攻・征服後も家康と文通していた、とされており、この関係は高天神城落城時の家康の判断には大きく影響したものと思われます。
実は次郎右衛門が家康に投降した時期は記載がないため、ひょっとしたら次郎右衛門も一緒だったのかもしれませんが。