都築惣左衛門秀綱 は、徳川家康が遠州に侵攻した頃に浜松近辺にいた国衆です。その後本多忠勝の指揮下に入り、筆頭家老となっています。

干城録では、姉川の戦い、三方原の戦い、大天龍の戦い、長篠の戦いと戦功を挙げた旨記載されています。また奥方は三方ヶ原の際に浜松城で小粥を家康に供し、褒美に小袖をもらっています。
http://www.digital.archives.go.jp/das/image/M1000000000000018758

都築家はたぶん現在の浜松市北区三ケ日 都築近辺 or 南区瓜生町に居たのだとおもいます。地名は前者ですが、後者に成金寺を建てているので後者の可能性は高いものと思います。

が、実は秀綱は松下藤六郎為雲の次男で、都築家には養子で行ったようです。

為雲の家については比較的記録が多く残っており、冨永公文氏が「松下加兵衛と豊臣秀吉」のなかで詳しく記載しています。
  ・長則・之綱が永禄6年に頭陀寺城から追われた後、松下為雲とその長男と思われる松下高信が頭陀寺近辺を支配した。
  ・永禄10年に連歌師 里村紹巴が頭陀寺を訪問したときに、為雲と旧交を温めている。為雲は京に長く滞在しており知り合いだったらしい。
  ・都築秀綱もこの際に里村紹巴に会っている。
  ・今川氏真から宇間郷をはじめとする所領の安堵を受けており、同内容が家康にも引き継がれている。(その後何かあったらしいが不明)

ー方で、秀綱も今川氏真から所領の安堵を受けていますが、私の関心をひいたのはその中に「城飼郡下平河」が含まれていることです。

明らかに遠隔地のこの「武家 松下家の祖 松下高長 還俗の地」の記載にはびっくりしましたが、よく確認すると傘下の「朝比奈八郎二郎」の知行だったようです。
下平川の隣の棚草郷では、地頭の紅林氏が年貢を払えずに追われ、朝比奈氏が入ったとの記録があるので下平川も朝比奈氏に同時期に与えられていたのかも知れません。