15世紀の遠州の守護は斯波氏だったのですが、具体的な城やその下で働いた武将を聞かれると、直ぐには答えられません。一応 横地城には「武衛館」の跡があり、斯波氏が訪れていたらしきことは推察できます。

が、今川義忠が横地を攻めた後討ち死にしたのについて斯波氏がどう絡んでいたのか等見当もつきません。

ということで、兵庫教育大学のサイトに河村昭一氏の論文が同じ題名の掲示されていますのでその内容を紹介したいと思います。

http://repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/919/1/AN100660790220014.pdf


この論文によると、15世紀はじめから、
1. 斯波氏は遠州守護だが、在京のままだった。
2. 守護代として、加賀島氏や甲斐氏が任命されていたが、遠江にきたわけではなく京にとどまっていた(在京守護代)。
3. さらにその下に狩野氏や大谷氏がおり、実際に遠州の幕府分を支配していたのはこのレベルだった。
4.   被官も越前や甲府の者で、遠江に来た一族はあまりいない。例外として堀江氏がいる。

察するに、斯波氏は、横地氏や勝間田氏などの有力国衆の支配権を認め、分割統治の道を選んだのではないかと思います。

だからといって駿河今川氏等が来たときに大人しくしているわけではなく地元国衆の間で暗躍していたことが想像されます。

上記の事情から、「斯波氏の城」の色は薄いように思います。強いていえば堀江氏の城っぽい堀江城でしょうか。館山寺遊園地パルパル?