南紀徳川史によると、大須賀康高の指揮下で約90人の武士が活躍し、特にその働きが顕著な七人を横須賀七人衆と呼ばれたそうです。
その面々は下記のとおりです。

1.曽根孫太夫長一・・・ 朝比奈城主になった人。 
2.渥美源五郎勝吉・・・何度も取り上げている「首取り源五」ですね
3.久世三四郎廣信・・・後に直参になって子孫が大名・老中になった人
4.坂部三十郎廣勝・・・久世氏と同様に活躍し、後に直参旗本になった人
5.福岡太郎八光忠・・・渥美源五郎と一緒に首取坂で武田武者を打ち取った人
6.丹羽彌惣氏吉
7.丹羽金十郎氏廣

ということで、今度はこの二人について調べてみました。

丹羽氏の由来については、寛政重修諸家譜の丹羽氏清、氏識の家系の記述によると、もともと清和源氏の一色氏で尾張の丹羽郡に住んだことから丹羽氏を名乗ったと出ています。天文年間に織田家に仕えて岩崎城にあったところ、一族の内紛があったことが記されています。

 

丹羽氏廣は、永禄六年に徳川家康に仕えはじめ、六百石で大須賀康高の傘下になった旨の記述が南紀徳川史にあります。
横須賀衆の二人も通字が「氏」であること、小笠原傘下の高天神衆には名前がないこと、永禄六年に大須賀康高傘下になってとされていることから、丹羽氏清・氏識の一族が尾張・三河から移ってきたと思われます。

さて、丹羽氏は、横須賀衆の一員として高天神城の戦いで功をあげた後、小牧長久手の戦では三好孫七郎(のちの豊臣秀次)の陣に攻め入って功をあげ、小田原城攻めでも功を挙げています。

 

その後紀州に行っているので、一度駿府又は遠州に帰ってきて、徳川頼宜の移封にともなって紀州にいったものと思われます。

 

残念ながら氏吉については記述がなく不明です。最初の600石は氏廣と氏吉分だったのではないかとも思われます。その後関東移封の際は七人で二千百石で同額、紀州藩に行くときも氏廣は三百石扱いです。本多忠勝傘下の武将、例えば都築惣左衛門等の俸禄に比べると、与力の分が入っていないとはいえ、極端に少なく、久世や坂部が直参旗本になった理由も察せられます。