しばらく前にtwitterで高村不期さんに永禄9年に今川氏真が松下弥平次重信に発給した文書について教えて頂きました。

(原文)
https://twitter.com/buqimingri/status/851767213547638784
https://twitter.com/buqimingri/status/851767315720884225
(現代語訳)
https://twitter.com/buqimingri/status/851772434587893760
https://twitter.com/buqimingri/status/851772669351546880

これは、永禄9年に、松下弥平次が浜松庄と国本庄(袋井市)の知行の安堵状を今川氏真に再発行してもらったものです(永禄9年6月13日・戦今2094)。

これから次のことがわかります。

1.この松下家が浜松・袋井の知行を得たのはその祖父の代に大河内の叛乱の際で功があったことによること。
大河内氏は浜松周辺の代官でしたが、伊勢宗瑞が今川方で遠州を平定した1500年頃から1520年頃まで何度も斯波氏について今川氏に抵抗しています。浅羽に松下高長以来の本拠のあった松下氏は、この際に功をあげて浜松近辺に進出したであろうことがわかります。

2.頭陀寺城の炎上の5年後であるが、今川家との関係が良好なこと。
 頭陀寺城の松下氏は、永禄4年に飯尾連龍が武田方についたときに今川氏と争い一族離散しています。頭陀寺の千手院日瑜のみが今川方につき寺を再興していますが、他は離散していたようです。離散していた方の子孫の例はこちら→ http://blog.livedoor.jp/arteiji/tag/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E5%AE%B6
 
 一方 この安堵状が発行された理由は永禄8年に古い安堵状が火事で焼失し再発行をうけたものです。頭陀寺松下氏はこのころは離散していた筈であり、なんの問題もなく再発行をうけているところに、この時点での頭陀寺松下氏の影響力の小ささが伺えます。

 

 

3. 領地の開拓を奨励されていること

  ちょうど大河ドラマの瀬戸方久のような立場のようにも見えます。海運・街道沿いに松下氏が多いことは、「松下加兵衛と豊臣秀吉」で冨永氏も指摘しています。

 


なお、家系図上は之綱の系統からは結構離れています(それでもちゃんと保綱の家系図にも出ています)  おそらくいくつかの系統が分かれてそれぞれ入植していたたのではないでしょうか。