久世三四郎廣宣は、高天神城を徳川方が武田方から奪還したときに大須賀康高の配下で活躍した横須賀七人衆の一人です。 普段だと横須賀七人衆は「高天神衆」にひっくるめて書いているのですが、久世三四郎は武田方が高天神城を落とす前に高天神城にいたかどうかが不明なため、いちおう一歩引いた表現にしています。(高天神城記には名前がでていない)
もっとも、徳川家康に拝謁したのが天正4年で直後に大須賀康高配下になっているので、本当は西退組だった可能性もないわけではないとは思います。
さて、寛政重修諸家譜によると(直参旗本なので)、久世三四郎は、大須賀康高傘下で高天神城攻めの前哨戦及び城攻めに参加し鑓で軍功を挙げ、さらに小牧長久手・北条攻めでも戦果を上げています。特に、天正10年の北条との戦では、豆生田の砦の戦いで敵陣に乗り込んで野中六右衛門とやりあった際に負傷し、戦功を挙げるものの敵陣近くに残された、等々臨場感あふれる記述がされています。関ケ原、大阪の陣では、坂部三十郎と組んで参陣しています。
・・・一人の話が三ページ弱も書いてあるのをはじめてみました。
大須賀康高の死亡後慶長13年に家中にごたごたが発生したのをきっかけに、渥美源五を含む横須賀衆の多くが遠州に帰ってきており、さらにその後呼び出されて徳川頼宜に仕えています。しかし坂部三十郎と久世三四郎は関東(武蔵の国南澤村)に蟄居し、その後秀忠に呼び出されて大阪の陣に参戦しその後は直参旗本として家系を伝えています。
この家系図をみると、横須賀組の結束と対抗心がよく見えるのですが、続きは次回にします。