曽根孫太夫長一は、高天神城を武田勝頼が攻めた際に徳川/小笠原氏側で防戦した武将です。渥美源五・福岡光忠とともに本丸につめているので、大将直属の重臣クラスであったと思われます。

曽根姓の武士としては武田方の家系(曽根昌世など)が有名ですが、孫太夫は武田軍進攻前から遠州にいるのは明らかであり関係は不明です。

高天神城落城後は西退組で大須賀康高の傘下となりました。南紀徳川史によると、その後馬伏塚城付近の武田方との争いで一人を討ち、天正四年に武田勝頼が兵糧を高天神城に入れようとした武田軍と塩買坂で遭遇して軍功を挙げています。その後なにか事情があって三年程浪人し、柴田家に仕えたそうです。その後徳川方に復帰し、敵の首を取って家康に許してもらった、と記載されているので軍規違反で勘気を被ったのでしょう。

小田原城攻めでも軍功があったとされており、やはり渥美源五や福岡光忠と同様かなりの剛のものであったろうことが推察されます。その後関東移封に伴って上総国に入ったそうです。

高天神城記によると、朝比奈城から朝比奈(現 御前崎市朝比奈)を領したとされ、大阪の陣で呼び出されています。その後子孫は徳川頼宣の下で紀州に行きました。朝比奈城については、いつもの大澤寺さんのブログをご参照ください。


海野氏の礼服の話でも子孫が出てきますので、紀州で代々順調に勤めていたようです。

なお、朝比奈は静岡県では藤枝と御前崎の二か所あり、若干紛らわしいですが、もともとは「朝夷」を監視する地名だそうなので、相互に関係があるわけではないようです(鎌倉の朝比奈も同じ)。

御前崎の朝比奈は「あさひな」ではなく「あさいな」と発音するのが特徴ですが、藤枝側
はどうでしょうか。