実は私は、直虎男性説については 「昔の話だし いろいろわからないことも一杯」程度の認識でいたのですが、戦国未来さんの「話題の井伊直虎男性説~実は2つの可能性が考えられる!? おんな城主直虎人物事典・番外編」ぐらいから、興味を引く話が続々とでています。
まず、この記事の出る前に、八幡 和郎氏が
「井伊直虎は男だったという新説を検証する」を発表しており、「一般的な解説」としてはほぼ完璧と考えます。
しかし、戦国未来さんの記事には、さすが人物事典の筆者だけあって八幡氏の記事にない重大なポイントがさらっとはいっています。それは、次の2点。
(この記事自体はご本人によると「小野家の関係の記事」としてかかれたもので、もっと詳しく書かれたものはこちら。http://senjp.com/sekiguchi-na/)
1.新野親矩の兄弟関係
>新野親矩と関口氏経が兄弟だというのは初耳だったが
この点については、本日の小和田先生のブログでも、「関口氏経と新野左馬助が兄弟だったとする点に疑問があります。新野氏の系図にはそのような事は書かれていません」とキッパリ。
2.木俣守安の親子関係
>彦根藩筆頭家老・木俣守安※
>※ 新野親矩の娘と北条家家臣・狩野主膳の子で木俣守勝の養子
この木俣守安の親子関係と武将ジャパンの新野親矩の記事と照らし合わせると、この論争に新たなポイントが浮かびあがります。
http://bushoojapan.com/iinaotora/2016/10/12/85535
この記事では、新野親矩の跡継ぎ(惣領)は北条方で(おそらく井伊氏と)戦って亡くなっています。
1.北条方に行ったのは時期的には遠州忩劇の時期よりも後だと思いますが、新野の惣領と一緒に移動するのが自然なので、木俣氏の母親は「新野に残っていた方の新野氏」だと思います(木俣守安の母親が井伊谷にいたとしてたら、徳川家と一緒にいればよいはずなので)。
2.井伊直政が手配したとなっているので、木俣守安の母親が木俣家に入るのは、新野家が小田原城攻めで滅んだあとのことでしょう。
ということは、木俣守安の母親を情報源とする話は、井伊谷関係についてはあまり信頼がおけなさそうなものの(その当時井伊谷にいなかった可能性が高い)、「その分 当時の新野の事情が」書いてある可能姓が高いということでしょう(もちろん、他の新野親矩の娘たちの話も入っていて井伊谷関係がいっぱいの可能性もありますが)。
ということで、私としては祖母の出身地の新野の当時の様子や北条方に逃げて行った事情がわかるかも、ということでわくわくしております。(あまり一般的な盛り上がりポイントではないような気もしますが)
(12/31誤字訂正しました)