以前新野から国安までのルートについて書いたのですが、よく遠州高天神記を読むと次のようにきっぱり記載がありました。

 

(なんどか引用させていただいているきのさんの「かさぶた日録」からです)

 

 

遠州高天神記 巻の弐 1 高天神より出張の者、甲州勢と合戦の事(一)


 
三月五日、信玄公城東郡表へ御手遣い有るべしとて、塩買坂に御旗を立て給う。方々物見を掛ける。南に新野池と云う湖水有り。それより南、高松山海辺に添いて、西へ行くべき道、白砂は浜松まで続きたり。
 
 
ということは、少なくとも当初は(地理がよくわからず) 3の池新田ルートをとっていたということですね。地理に詳しくなった以降はどうかわかりませんが、徳川軍が反攻に入った際にはそもそも塩買坂ルートは閉鎖されて今の国道150線ルートで補給を試みていたようです。
 
 
さて、今日の本題はそこではなく、 新野と高橋の関係についてです。
 
室町ー戦国期の資料を見ていると高橋と新野があいまいな資料が散見されます。
例えば、松下平八が庄屋になっていた土地や、天ヶ谷城などです。
 
隣接する新野(御前崎市)と高橋(菊川市)ですが、高橋川の流域を主に高橋、新野川の流域を新野と区分しれています。このため、境界は山の中です。トンネルができた以降はきっぱり境界が意識されますが、戦国期は当然なく、山の中をうねうねあるいていると境界はどこかわからなかったはずです。しかも高橋川は流量も少なく、山の中から見えないので地理に詳しくないと判別困難だったのでしょう。
 
ということで、「井伊家サバイバル500年」に記載のある日向ヶ谷井伊氏(嶺田井伊氏)の「熊野神社」も、高橋の「熊野神社」である可能性が高そうな気がします。
  (高松神社 説は、神社対応関係が間違っていたため前言撤回)
 
「熊野神社 高橋」で検索すると、現在も祭礼が続いている 様子をみつけることができます(同じ小学校ですが顔と名前が一致しないのでリンクは省略します)。
 
境内のなぎ(樹齢500年)も、時期的にぴったりです。