福岡太郎八光忠は、武田勝頼が高天神城を攻めた際に本丸を守っていた武将、すなわち小笠原与八郎長忠 直属の武将です。南紀徳川史によると、父親は三河出身で今川家に仕え、その後小笠原家に仕えたようです。その後徳川家康に呼び出されてその子孫が紀州にいくことになります。

まず姉川の合戦で槍の功を挙げ、信玄の高天神城攻めでも功をあげたが、勝頬が城を落とした際に大須賀康高の配下になったとあります。本人の項目にはありませんが、渥美源五が、浜岡の首取り坂で武田方と遭遇し討ち取った際、同行していたのがこの福岡光忠です。従ってこの人も相当の手練れであったことが推測されます。

さて、代わって徳川方が高天神城を攻めた際、家康は70人余の忍者を集め、城に侵入させることを計画しました。その作戦のため、20人余が敵を引き付けるために城を攻めることになり、福岡光忠はその囮側に選ばれ、見事役目を果たした、と南紀徳川史にはあります。

高天神城戦では武田方が攻めた時も徳川方が攻めた時も双方の鉄砲が飛び交っていたようなので、危険な任務であったに違いありません。

遠州 高天神城記にはこの場面は出てきませんが、秘密作戦であったのでしょう。結果として武田方は城から打って出ることを選択したのですが、忍者が井戸に毒を投げ込んだりしたことも考えられます。

井伊直政(当時万千代)も高天神城記の 城攻めには出てきませんが、城の水手を切る功をあげたとしている資料もありそうであれば忍者部隊に入っていたのかもしれません。