昨日、今日と菊川市河東に何軒かある「笹瀬」氏について調べています。

 

笹瀬氏は、戦国未来さんの奥山氏についての記載によると、今川了俊が九州を攻めた際(1375年)に横地氏・井伊氏とともに同行していることが記録に残っています。

 

「了俊は永和元乙卯年三月、九州に下着し、筑前國せふり山に陣取。御敵、千葉・菊池・松浦・大村と十三年ヵ間の合戦に相伴ふ侍、遠江・駿河の人々、横地・勝間田・奥山・井伊・笹瀬・早田・河井、悉討死」(『今川家譜』『今川記』)

 

この当時の横地一族と併記相当されるということはこの当時相当の勢力があったはずです。

 

浜松市史の記載によると、1704年に「笹瀬村に隕石が落下」となっているので、おそらくは浜松の姓だと思いますが、九州に行った時の損害があまりに大きかったのか、本多氏家臣一覧にも出てきていません。

 

現在で最も多く笹瀬姓が存在するのは、河東を除けば、浜松近辺の新居・雄踏付近です。

 

「歴史を極める旅の人生」の方が、小牧・長久手で討ち死にした池田恒興の首について、なぜか戦場から首実検を経ずに持ち去られ、新居の笹瀬氏のところに持ち込まれ、その後池田神社を立てて供養した、話をまとめています。

 

池田家が他勢力の領地で探し回るところはにわかに信じがたいですが、池田神社は実在しますし、池田家文庫にも記録があるようです。

 

新居も雄踏も浜松市東区とされる笹瀬村からはかなり離れており、九州攻めで本拠地をなくすほど衰退した家はどうやらないようなので(早田家はしらべていませんが)、大河内氏の反乱や遠州忩劇等他の事情で衰退したのかもしれません。