高天神城の案内板には1180年に謂伊隼人正直孝が最初に砦を作った旨が記載されており、これは高天神城のある土方の近隣である菊川市嶺田の井伊家に関する記載と理解しています。

また、高天神城の武将は、華厳院と密接な関係があり、小笠原春儀もここに書状を発行しています。

この華厳院に、1500年に両親の菩提を弔うために菊川市嶺田の田を寄進したのが井伊伊賀守直勝です。 

で、その後1517年に井伊千代寿・弥八郎泰勝が 那智大社実報院に寄付をしていますが、「伊賀守」はついていないようです。それではこの「伊賀守」はどこに行ったのか。

なんとかの守は、親が役職をもっていたものを子供も引き継いで名乗ることが多かったと理解しています。

龍巣院文書では、福島家(おそらく春儀に殺された人、福島助春?)が「伊賀守」を名乗っていたことがわかります。福島家の子孫も「伊賀守」を名乗っています。

これらのことから考えると、嶺田井伊家は 福島家に吸収されたのではないか、さらに小笠原家が台頭したときに消えたのではないか、推測できそうな気がします(根拠はありませんが)

井伊家の名前は、由緒あるものと認識されていたはずであり、西の井伊家が没落したときに都合が悪くなって改名したという推測も成り立つようにも思いますが。

なお、嶺田を管轄する神社は、笠原荘一宮である高松神社であったようです。(三熊野神社かと思っていましたが、嶺田新田の検地も高松神社に対して行われていますので)