静岡県史料にある龍巣院文書によると、当時高天神城の城主であった小笠原氏は永禄12年(1579年)に、福島伊賀守及び三浦右衛門夫婦の供養のために袋井市の龍巣院に永代寄進しています。

まず、「三浦右衛門夫婦」は時期的に三浦義鎮(本名:三浦真明 であることが2018年頃判明しています/ 2022年8月注記)とその奥方の菊鶴の方で間違いないでしょう。
三浦義鎮は、掛川城に受け入れてもらえず、菊鶴の方の兄である四ノ宮氏を頼んで袋井市岡崎に行ったところまでは、右衛門塚の伝承からも明らかです。高天神城に行って入城を断られたとの話もかなり可能性は高そうです。
この時期、徳川家康は小笠神社に本陣をおいて掛川城を攻めており、そちらに向かうことは考えにくく、また高天神の小笠原氏は徳川方についたばかりで、明らかに今川方の三浦氏を受け入れるわけにはいかなかったはずです。戦国史研究の糟谷幸裕氏の論文によると、三浦氏と小笠原氏の仲は悪くなかったようですが、とりあえず受入拒否したのはやむをえないところです。

三浦義鎮は、文武両道の剛の者で、堀越氏攻めや飯尾氏の謀殺でも活躍しており、徳川方からも武田方からも危険人物と見られていたことは想像に難くありません。小笠原氏から「領内にいる」との報告があれば、「討て」になるのはやむないところです。

最後は、小笠原氏に討たれたともー族で自害したとも言われますが、寄進状が夫婦になっているのは、名を隠し逃れたものがいるから、と思いたいところです。

一方、寄進状に名前の出ている福島伊賀守は、おそらく高天神城で小笠原春儀に討たれた人だと思いますが、その子孫が北条方に逃れて、それが北条綱成と福島伊賀守勝廣とのことです。(この部分はまず時期的に信用できません。また、北条綱成は福島九郎家の出身であろうと推察されており、遠州の福島家は十郎家であることとも整合性はとれません)

福島伊賀守の武勲
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043137

小笠原氏による寄進は、その手にかかったニ家の菩提を弔うためだったのでしょう。