次男は真田丸をよく見ていて、時々六文銭入りの絵を書いています。

さて、真田家は信州の有力ー族である滋野氏・海野氏につながるー族とのことです。



「海野」の由来は、ヤマトタケルの命が、信州の小さな湖の近くを通った際、弟橘比売を失った海難を思い「この海も野のごとくなれ」と言った故事にあるとのことであり、きわめて歴史の長い由緒ある名字です。

さて、嶽南記によると、海野氏の一部は遅くとも戦国時代には駿河国の井川(大井川上流)に定着しており、武田軍の侵攻で被害にあったり、家康に取り立てられてお茶壺道中に関与したりしています。
 


お茶壺道中についてはこちら。

 

ふと気が付いたのですが、お茶壷道中は、静岡のもの(井川→駿府城間)と京都宇治→江戸城のものがあり、静岡のものはきっと家康の道楽 or グルメだっただけと思うのですが、後者は徳川家の威光を街道沿いに徹底する効果をねらっていたように思います。

 

さて、井川で取り立てられた海野さんは、徳川頼宜について紀州に行ったとのことです。

 

紀州にいったあとに、駿河の海野さんに羽織袴を渡すエピソードはきのさんのかさぶた日録のこちら。浜岡の朝比奈城にいた、高天神衆の曽根孫太夫さんの子孫もでてきます。

 

 *曽根さんの話も調べなくては

 

さて井川のー族と同じかどうかはわかりませんが、河東の養徳院(小笠原春儀の菩提寺)の近くにも「海野さん」が数軒あります。

小学生のころには、きっと海が近いから海野なんだ、と思っていましたが、まさか山の中の名字だったとはびっくりです。 

 

養徳院近くということは、戦国時代から人が住んでいたはずで、信州で武田軍に追われたか、駿河で武田軍に追われたか、あるいは高天神城が武田軍に落ちたときにやってきたか、でしょうか。あるいはもっと前でしょうか。