その3で豊前守? との話を書きましたが、確かに豊前守を名乗っていたそうです。

証拠として、戒名が「本光院心月不染居士」が「ぶぜん」で入っているとのことです。

 

一方で、浜松近辺の豊前守といったら、飯尾豊前守連竜が同時代に引馬城の城主だったはずです。この当時の「なんとかの守」は先祖がなのっていたものか或いは上司の許可を得て自称したものが多いはずですが、飯尾連竜と同時に名乗ったのはさすがにないと思いますので、飯尾連竜がなくなった後にその領地等を引きついだ一環で豊前をなのった、というところでしょうか(勝手な想像ですが)

 

父親とされている松下連昌が鴨江寺近辺なので、その近辺の出身であろうと思いますが、西ヶ崎領主との資料があること、祝田に屋敷があったとも伝えられていること、家康につかえていた時は浜松城近辺であったであろうことをさらに考慮すると、家をでて独立していた(あるいはどこかの家に入った)のではないかと思います。

 

連昌の家にいるのであれば、安綱よりも下の弟である元綱をわざわざ跡継ぎとして迎える必要はないでしょうから。

 

浜松市北区の都田には松下さんが結構いるので、井伊家とのつながりは 井伊領に親戚がいたことでも、清景自身が井伊領と関係ある(直接仕えたか、あるいは領地が旧井伊領であったか)でもどちらでも説明はできそうに思います。

 

・・・・・現在までの大河ドラマの扱いをみると、細かく描かれる可能性は小さそうですが、、、

 

PS 2017/1/7 番号等修正しました