田沼意次の政策は重商主義と表現されるものの、スペイン等に比べれば遥かに殖産興業的な側面がありました。吉宗の時代の政策が増税+金融政策(米価・通貨政策)で米を基本としていたのに対し、意次は商工業の発展と課税を図っていたのです。

相良にもその方針が行われ成功したのが人気の根幹でしょう。


一方で民間側でも様々な産業発展への取組が行われていました。横地村誌にも農家が沢山の本を持っていた様子が記されているようです。

それらの本の著者の一人として、大蔵永常がいました。若い頃に私が伝記を読んで感銘を受けた偉人です。

・貧しい農家を豊かにするために、換金作物を勧めた。
・さとうきびとその加工方法を薩摩藩に潜入して入手し、広めた。
・ミツマタ・コウゾの栽培と和紙の製造をすすめた。
・ハゼの木の栽培とロウソクの製造をすすめた。
・「農家を豊かにする本を出しているのに、本人はとても貧乏だった」

ふと思いついて調べてみると、晩年のうち、浜松の水野藩に何年か召しかかえられ、はぜやロウソク産業に注力していたとのことです。

さては浜松 水野藩が薄給で、とつい疑ってしまいましたが、浜松中央図書館によると十人扶持とのことなので、そこまで低くはないものの、きっとさまざまな研究に使いこんでしまったのでしょう。


この間出版社から前借りしていたようです。

そういえば、この頃には柳の下の二匹目、三匹目を狙った出版社も多かったようで、「質が低くつまらない決まり文句が延々と続く」と大学生の時の近世文学の講義で、先生が嘆いていたのを思い出しました。

現代の出版社も玉石混交で、職場を生き抜け!!もありましたが、当時と大して変わらないのかもしれません。
(売れない作家が貧乏なのも?)。