徳川方で城を守った高天神衆のうち、黒田氏・漢人氏などの土豪は、御前曲輪に入っていたようです。松下平八もそのなかの一人です。

 

(増田実氏の資料から)
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 天正二年落城後、致仕(隠居)して新野村に住した。その末裔同村に在るというが、子孫不明。
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この人には遠州高天神城記にこんなエピソードが載っています。

(追記:「きのさん」さんの「かさぶた日録」にあります)

(1) 落城後、浜松の家康公の近習として仕えたが、そのうち辞して帰農した
(2) 庄屋として羽振りがよかった
(3) 家康公から呼び出しを受けたが、行かなかった
(4) その後袋井縄手のあたりで 家康公と出くわし、顔を隠したが見つかってしまい、からかわれた

家来をよく覚えていた家康公らしいエピソードのように思います。

 

思うに、武田軍に荒らしまわされた新野・高橋周辺から農民が逃亡していたところに戻っていき地元の名士になったのでしょう。

高天神城記には、新野村となっていますが、その隣の高橋であるようです。
小笠南小には、松下平八の子孫と思われる人の顕彰碑があります。

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(南小のホームページから)


南小プールの東側に顕彰碑が2基建っています。

むかって左側に「中島秀清先生」、右側には「松下平八先生」、と読むことができます。

二人の先生は、明治、大正時代と昭和の初めごろ、南小と南山地区の教育に大きな貢献した方です。

顕彰碑を読むと、当時の人たちが、貧しい中でも、どんなことがあっても、地域の学校を維持し、子どもたちに一流の教育を施そうと努力した意気込みが伝わってきます

https://www.city.kikugawa.shizuoka.jp/ogasaminami/news.html

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