落合左平次道次は、鳥居強右衛門の絵を指物にしていた人です。

この指物は近年修復され、国立歴史民俗博物館で展示されており、ニュースによると愛知県での展示も予定されているとのことです。

 

 

鳥居強右衛門の話は、この旗のインパクトもあって小学生にも知られています(単に次男が知っていただけ、とも言いますが)。

 

一方、旗を持っていた人は「落合」左平次道次で、武田方でその後徳川家康に仕えたそうで、この旗の現物は紀州にいる子孫が伝えたとのことです。

 

・・・・・落合?家康に仕えた後 紀州?

 

菊川市だと落合姓は、お茶刈機のオチアイ刃物、洋服のオチアイ等々珍しくありませんが、他では珍しかったはず、家康に仕えた後紀州に行くのは、帰農していて大阪の陣で呼び戻されたパターンと思って寛政重修諸家譜をあたってみると、、、、、

 

 

 

ありました、落合道久ー道次 親子。

 

 

 

・・・・・・この記述では、長篠の合戦は武田方で戦ったのか徳川方で戦ったのか不明で、なにか微妙に違っているような気がしますが、南紀徳川史でも「道次」となっているのでOKでしょう。(旗の絵は「南紀徳川史」から) 

 

長篠の合戦時は16歳とのことで、鳥居強右衛門の生きざまは強烈な印象だったのでしょう。

 

南紀徳川史には、きっぱり遠州の出身と書いてありますが、もう少し絞ってほしかったところです。松下常慶の奥さんと関係あるかどうかは、謎です。

(よく考えたら小牧は遠州でなかったので修正しました)