現在目にできる新野の城は、すべて武田軍が高天神城攻略・支援のために改修しています。

 

武田軍は、相良から塩買坂を通り、新野から国安 (現在の掛川市国安)に向かい、そして川を渡ると北上して高天神城に至っています。

 

そこでこのルートについて考えてみました。新野から国安に向かうルートは大きく3つあります。

 

(国土地理院の1962年航空写真による)

  1. 高橋川沿い・平地の山沿いを行くルート
    新野から出発すると若干遠回りですが高橋からであればこれが一番平坦なルートです。現在であれば高橋の交差点から西に県道が伸びており、河東の中を突っ切って三俣に至ります。しかし、戦国時代は平野部が低湿地であることから道の事情はまったくことなっていた可能性があります。
     
  2. 佐栗谷の山の中を経由して今間・一の谷を抜けていくルート
    これも舟ヶ谷城からは若干戻ることになりますが、釜原城からであればそれほど回り道にならないルートです。昔は道が狭かったと記憶していますが、現在は道がよくなりましたので1のルートと大差ありません。徒歩・馬であれば1よりも近いはずです。
     
  3. さらに南を回って池新田経由門屋に出るルート
    かなり遠回りになりますが、さらに南側を行くルートです。

武田軍は乱暴であり、駐在先、たとえば新野での被害は結構あったものと思います。1.のルートの近辺には正林寺及び養徳院がありますが、寺が燃えるほどの被害はうけていないようであり、このルートの可能性は低いのではないかと思っています。

 

2.のルートは、 高橋から千浜海岸に至る 小学校の遠足で通ったルートであり、近いと思います。昔であれば馬が通れればOKなのでこのルートを使った可能性はかなり高いと思っています。難点は、新野から先国安に至るまでの間にどちらの側の城もなく、徳川による包囲網とそれに対する武田側の対抗という観点では不思議な状況です。

 

3.のルートは海岸沿いであり、何度か武田側がとったことが分かっています。さらに横舟城、朝比奈城にも武田方の手が入っています。

 

上記から考えると2と3の両方を使ったのではないかと考えています。