望月達夫さんによる嶺田、下平川の菊川・牛渕川上流にあたる奈良野、横地近辺の水争いの記載を読んでいると、川上と川下が隣村に行くのもはばかられるような緊張した関係であることがよくわかる。

 

この庄屋六兵衛が、西横地の総勢を引き連れて藤谷池に押しかけ、池の栓3本を抜いて実力で池水を西横地へ引き、半日に渡る東横地百姓との取り合いの 後、東横地の百姓が新しい栓を作って池水を止めるや、今度は東横地村の田へまわって畦を切って歩いた。明和9年(1772年)日照りの続く6月の事だっ た。

 

 

鎌倉時代や室町時代に横地氏が軍事化していったのもそういう背景があるからであろうか。