新野親矩の所領の石高について、嶽南記2巻の今川家臣団の列挙では五千四百石となっています。

(もっともこの家臣団の記載については、孕石 家が入っていない等 嶽南記自体でも偽書であろうとされていますが)

 

ところで新野村の石高は、江戸末期でも二千石程度であり、新野村内の新田が開発未了であること(なんといっても、新野氏の城は別名舟ヶ谷城で、すぐ近くまで水辺だったはずです)、池新田も開発もまだまだであったこと等から考えると、戦国期は数百石程度ではないでしょうか。

 

そうすると新野村だけでは全然足りないことはあきらかです。

 

可能性としては下記が考えられます

  1. そもそも本拠地は新野村ではなかった。 
  2. 近隣まで領地であった。
  3. 飛び地に領地があった

1.の根拠としては居館が見つかっていないこと、地元にも新野家の痕跡がほとんどのこっていなかったこと等があげられますが、井伊直弼の家来の人が一生懸命しらべた結果めでたく一族の墓所がみつかったので、まったく無関係というわけではないでしょう。

 

2.は可能性が高いと思います。 別稿で論考しますが、旧 新野家や新 新野家の初期は周囲が囲まれているので領地は小さかったのではないかと考えています。

 

3.は、少なくとも駿府と井伊領には別の屋敷があったようなので、否定する理由はないと思いますが、それがどこかはなぞです。