(「源太左衛門」は 寛政重修諸家譜による)


松下長則と松下之綱は、頭陀寺/頭陀寺城の松下氏です。

松下加兵衛は豊臣秀吉が若いころに浜松に来た際に仕えたことで有名ですが、秀吉と之綱は同世代なので、仕えたのは長則のほうであろうと言われています。



嶽南記の2巻895ページの長則・之綱の記載を下記します。
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松下嘉兵衛之綱は、松下介衛門長則の子にして、長則の高祖を壱岐九郎右衛門尚(タカ)長という。尚長は源氏、佐佐木泰綱の玄孫にして、江州より移り、参河国碧海郡松下村に住し、もって氏とす。長則は、源太郎座衛門と称し、若年より槍法を善くし、諸州を遍歴して其道を錬磨し、子孫代々今川家に属し、その分国遠江国に移り、長上郡西塚に住して、地三十貫を食み、後また移りて市場に住したるなり。市場は馬込川の東にあり。今も松下屋敷の址日吉の鎌磨池等の址存す。人或いは嘉兵衛を久努城主とすれども松下氏の久努に移りしは天正十八年以後なれば時代異なりと知るべし
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もうこれだけでも「介衛門」「源太郎座衛門」「加兵衛」の関係や、「子孫代々今川家に属し」等々突っ込みどころ満載ですが、最大のなぞは、なぜ諸州遍歴の後浜松近辺に住しているのか(三河の出身のはずなのに)、浜松近辺は松下家がたくさんいるのにそれとの関係は、といったところでしょうか。


上記にもあるとおりその居城は 桶狭間の合戦前は 市場城(頭陀寺城)なのですが、引馬城の飯尾氏が徳川家との内通を疑われて新野親矩及び中野直由に攻められた際に、焼かれたようですが、詳細不明です。

(なお、頭陀寺はいまこの市場城(頭陀寺城)のすぐそばにありますが、昔は別の場所にあったと嶽南史を含むいくつかの文献に出ていました・・嶽南史以外は何を見たのかもう思い出せない・・・)


高天神城記によると、高天神衆 林平六は、「頭陀寺にて一日に6度槍をあわす」との記述があり、激しい戦があったことが推測さます。

徳川氏が浜松入りした際に速やかに帰順しているのも、居城をもっていなかったとの背景があったようにおもいます。(でも長則は寛政重修家譜によると、武田家又は北条家に行き、徳川家にはついていないようです)。

その後、之綱は家康傘下で活躍しており、掛川城攻め、家康と勝頼との対峙での同行等(高天神城周辺および田中城)、軍功は清景よりもはっきりしています。

しかし徳川傘下であった際に菊川市西方で堀田城を築き、「松下城」とまで呼ばれているのですが、これが之綱の話であることは広く知られていないようです。(富永公文氏の本では、この時期が豊臣秀吉が長浜城主となり、之綱がこちらに行っているとしてこの説は採用されていないようです)

その後豊臣方についた後、再度遠州久野城主になっています。この時期は不明。

松下源太郎清景の家系図とはややこしいこと(*)になっており、密接な関係であったようですが、都筑家と同様、清景の家は頭陀寺の一族の家臣扱いではないとの印象をうけています。

 

(*)一番 わかりやすい関係は、清景の姉妹が之綱に嫁にいっているので義理の兄弟ですね。松下助左衛門範久もそうですが。

 

(*11/2若干修正しました)
(2017/1/7 さらに修正しました)
(2018/4/19 嶽南史の表記を修正