*2016/8/27 訂正  松下常慶/安綱に関する部分を修正しました。

 

松下常慶入道は、徳川家康が浜松に入った頃、浜松の二諦坊の住職をしていたが、税のことにとても詳しいことを買われて徳川家の配下となりました。

常見(じょうけん?)又は松下常慶とされる人物は、家康が駿府に入った際に台所奉行を勤めていて、駿府城から出入りする門は常慶門であったと伝えられています。また、漬物を節約するために塩辛くしたことをめぐり女中から恨みを買っていたとのエピソードが残っています (岩淵夜話) 。

 

徳川実紀に現れる 、家康から 大阪の陣にあたって兵糧の準備を申し付けられた厨人の長も同一人物である可能性が高いと考えられます。

 

(世に傳ふるところは。大御所御發輿の前に。厨人の長松下常慶を召て。御陣中御膳米5升。干鯛1枚。梅干。昧噌。鰹節ども随分に持せしむべし。其外無用の物一切持べからずと命ぜられしゆへ。厨所の長持唯一にて事足たり。さらに人の煩なし。畢竟數10年來戰塲を經給ひし事故。かかる事迄老練し給ひ。儉素簡易常人の及ぶ所ならずと。

松下安綱と混同されることが多いようですが、関係についてはよくわかりません。横浜市に行ってから台所奉行をすることはないでしょう。

 

松下常慶 こと松下安綱であるとされることが多いようですが、下記の理由から別人であろうと思っています。

 

1.小役人であること

「台所奉行」とは書いてありますが、「奉行」はわかりやすくするための現代的な説明で、もっと小役人的な役職です。江戸城だと200石程度とどこかで読みました。役職的にお目見えはあると思いますが、格としては直参旗本に及ばないものと思います。(徳川実記でも「御家人」にしている)

松下常慶は直参旗本で、駿府城の天下普請に参加するぐらいの格なのであわないように思います。

 

2.松下常慶の経歴

「家康及び秀忠に仕えた」旨伝えられています。警護関係の直参旗本は、江戸城と駿府城を交代で勤務していたとのことで、両方に同時に仕えることはありうるし、常慶は常慶屋敷をもっているので両方の仕事をするのは自然なのですが、「厨人の長」は常勤でしょう。


二諦坊はなかなか悪名の高い寺で、もっとよく調べたいところです。
 

3.話の変遷

最初の記載のある岩淵夜話では、「常見」となっており、「常見預かりの蔵」が出てきます。おそらくこの蔵は普請したのが常慶門と同様、常慶でその名がついていたため常慶に比定するのは筋の通ったところではありますが、名前の響きだけが似ているせいであって別人である可能性は否定できないように思います。

ps.松下家共通の謎(なぜ武家の松下家の祖の高長は、一時期 下平川(菊川市下平川)で還俗した、と書かれたのか)以外は、城東郡と関係はないですね。失敗。