ここしばらく嶽南記を読んでいるのですが、それによると、城飼郡と城東郡の呼び名は高天神城の戦いの時に、徳川方によって横須賀城の東、すなわち城東郡に統一されたとのことです。

そして、甲州方が高天神城を落とした際(1574年)、この郡の支配関係は、「小笠原氏以外変わらず」である旨書かれていました(嶽南記第3巻471ページ)。

落城時に徳川方についた地元土豪は 大須賀 康高について(横須賀衆)馬伏塚城近辺に在住し、家康から領地の安堵を受けているので、これと一致する話ですが、内田郷他2郷は勝頼から斎藤宗林に安堵されていたり、嶺田・下平川の黒田家は、これを期に帰農していたりするので、結構謎な状態であったろうと思います。

高天神城はこの後 周囲を全て 抑えられて落城する訳なので、その後徳川方支配が進んでいった、ということではありますが。。


ところで、以前よく確認せずに「旧高旧領取調帳」を「どこかのー時点」と書いてしまいましたが、これは明治時代に入って新政府が提出させた資料なので、最後の段階の資料でした。

新野未来塾の新野の紹介だと、『寛政のころとなり、徳川の旗本、長谷川、石ヶ谷両氏及び万年氏、根本氏によって分割統治』されていた、とのことです。

徳川家の旗本は、もともと三河や遠州の士豪出身が多く、例えば長谷川氏は焼津、石ッ谷氏は西郷(掛川市)出身のように見えます(資料で確認はしていませんが)。


他の地域でも同じように旗本直轄地はばらばらだったようですが、横浜市の折本町は「ずっと松下常慶安綱 (松下源太郎清景の弟)の子孫、との記事もあり、あまり入れ替わらなかったところもあったようです。