花月夜、歩く | 酒とホラの日々。

花月夜、歩く

四月、仕事と宴会帰りの深夜、九段の靖国神社から千鳥ヶ淵のほとりを歩いた。このあたりは東京における桜の三大名所のひとつに数えられるところで、桜の名所というと聞こえはよいが、昼から夜遅くまで花見の乱痴気騒ぎが繰り広げられる酔客の名所でもある。

 
この日もすっかり遅くなって日付も変わってだいぶ経った靖国の境内は、すでに灯りも消えて、すえた酔っぱらいの残臭が漂ってはいたものの、あたりにはつかの間の静けさが戻ってきていた。
 
この九段のあたりは花見の名所でもあるが、江戸時代は月見の名所としても有名だったところで、九段の坂の上から眺める一月と七月の二十六夜の月光の中には三尊が現れると言われて、多くの人出で賑わったらしい。三尊とは阿弥陀、観音、勢至のことである。

 
もちろん、現代では月見の月を拝むような行事はなくなってしまっているのだが、信仰と救いを求めて月を拝んだ昔の人々と、つかの間日常の息苦しさを逃れて酔い騒いだ現代の人の心は結局のところ共通しているのかもしれない。いつも世の中は生きづらく、面倒と苦渋がつきまとう。

月見の参拝者は救いを得ただろうか、花見の酔客は憂さを忘れたろうか。

 

始終せわしなくやるべきこととに突き動かされ、あふれる情報に右往左往する私たちには、心を緩めるにも騒々しさに身を置くことで刹那の救いを求めてしまうことがある。もちろんこれも時にはあってもよいことことだが、騒々しさの去った屋外を歩いていると、私にはどうしても羽目を外した後の空しさばかりが心にひっかかってしまうのだった。

  
素朴な信心もなくし、絶えずアドレナリンを分泌して目標に突進することを是とする社会では、静謐な充実感など求めること自体無理なのだろうか。

とぼとぼと歩みを進め、すでに静けさの支配する九段の坂に沿って皇居の石垣の方を眺めると、かすんだ月が掘水に映り込み、足下には花見客のこぼした残り酒にも月が同じように映って光っていた。

  
なるほど広大な月の光ではあるが、海にも堀の水にも映るのと同様、道ばたの泥水にも草の露にも映り込む。
映り込んだ月に違いはないのなら、騒々しさに惑う私たちもまた静かに月を拝んだ古来の人と同様の静謐な充足を得ることができるとも言えるのだろうか。
 
うーむ、これは「人の悟りをうる、水に月の映るが如し」、というところかな。。。

などととりとめもないことを考えながら寂しい通りを歩いていると、たまたまタクシーが通りかかり、これを拾って私は、ようやく遅い帰路に就くことができた。

  

動き出したタクシーのバックシートで大きく息をついて、ふと振り返ると、窓にはかすんだ月と桜が混じりあうようにぼうっと映っていたのだった。