パートタイム廃墟のデジャ・ヴ | 酒とホラの日々。

パートタイム廃墟のデジャ・ヴ

週末廃墟
時折、人や車の流れがぱたりと失せた、日曜のオフィス街や物流基地、工場地帯といった週末だけの廃墟を散歩してみることがある。

なにも廃墟の魅力が語られることは今に始まったことでも珍しいことでもないが、人の気配の失せた現代の遺跡群が見せる表情は、文明消滅後の退廃した未来世界にも見えないこともない。ただそれだけでは空想としても極めてありふれて凡庸なものであり、仮にそんなテーマで何か書いたところで「陳腐」の一言であしらわれてしまうことだろう。
 
それでも週末のゴーストタウンに立つたびに、私は妙な既視感にとらわれることがある。 既視感などというものは記憶の不整合以上に現実的な根拠などあるわけもないのだろうが、ありもしない既視の元を探るうちに、既視感はいつの間にか反対に予見視であるような錯覚にまで広がってくる。
つまり、これから人間の失せた週末廃墟を出て、いつもの空間だと思って戻ったところがやはり人の気配のない現代の廃墟であるという想像である。日常に戻ったはずが、現代の廃墟という非日常世界はどこまでも広がっていて、いつの間にか非日常の中にかつての日常の世界を求めて彷徨うことになるのではないか。そんな錯覚を覚えるのである。
 
しかも錯覚の中では私は世界のたった一人の傍観者として、ただ人の消えた世界を眺めていく存在であるらしい。人のいない世界に日が昇り大地やビル群や海原を照らし、何事もなくまた夜が巡り来る静謐にしてひたすら平穏な世界。
 
もちろん人間は完全な孤独のうちには生きていけないから、こんな想像はもはや妄想に近い。だが、心の内奥に同じようなイメージを共有できる人は案外多いような気もする。それが私たちの生きる社会へ不安や焦燥の現れなのか、高度に複雑化しますます高速化する社会への反対願望なのかは正直わからない。
ただ、廃墟にあってひたすら静かで穏やかな世界と向き合うことができる気がするから、また静かに自分の内奥に向き合うことができるような気がするから、廃墟へ散歩に出かけるのかもしれない。


散歩の魅力が自己の発するはかない想念のうちにに一時身を浸すことだとすれば、臨時廃墟の探訪は、手軽な自己探訪の旅でもある。