おサルでアーメン | 酒とホラの日々。

おサルでアーメン

彼は悩んでいた。。。
もっとも、彼の元には絶えずひっきりなしに人間の願いや許しを請うメッセージやら思念派が送られてきてはいるのだが、彼の役目はこの世界を外から眺めて人間の愚かさを哀れむことであり、そのほかに特に何をするというものでもない。これまで積極的に人間世界に関与してこなかった彼ではあるが、絶えず送りつけられる嘆きの山に、そろそろかわいそうな人間に憐憫を垂れてやろうかという気を起こしたのが彼の悩み始まりなのである。
  
とはいえ、人間の不幸の原因とその対処法はわかりきっていた。人間はその発達した精神活動により、環境を変え、産業文化を生み、余計なことを考えすぎ、それがまた結局のところ自らの生存環境を危うくしては悩みを増やしているのは明らかなのだから、この発達しすぎた精神活動をぜい弱にしてやれば、人間の外的・内的悩みはすべて消滅する。 
 
つまり精神活動が退行し、着の身着のまま、木の実を拾って世過ぎ身過ぎをする猿人並みに退化した人間には、きっと環境破壊も対人関係の悩みもなくなることだろう。その結果たまに他の動物に食われたり、病気で木の実拾いにいけなくなって餓死する人間がいても、
それはそれだけ、そいうものなのだ。
 
ただ、彼が悩んでいるのは、そんな新しい人間の活動様式の是非でなく、
彼自身のことであった。なぜなら彼を創り出し、存続させているのは彼を想像し崇める人間の精神活動に他ならないから、人間の精神活動の衰退は彼自身の存在基盤を脅かすことになるのだ。 そこで彼は野生回帰した人間が、彼のこと、すなわち「神」という概念を維持できるか、まずサル山の猿で試してみることにしたのだ。
 
実際のところ近年お猿の群れの中に意味不明な儀式を執り行うような行動が見られることが報告されているが、実はこれは神の手により猿キリスト猿ヨハネ猿モーゼが生まれつつあることの表れであったのである。 
精神退行した人類がなお神を崇める行為を維持できれば人間の想像の産物であるところの神もまた存在しうる。サルの祈りは人間を救う神の賭けとも実験ともいえる。
 
はたしてサルの祈りは、人類の未来をすくうことになるのだろうか。だが、それよりもおサルが神様を盾に争いや分断という不幸の種を作ったりしないようにだけは祈りたいものだ。人間みたいに。