早春の野を歩く | 酒とホラの日々。

早春の野を歩く


早春の野

春まだ浅いとは言うものの、二月の終盤ごろからは冬型の天候が弱まったことをはっきりと感じさせる日が周期的に現れるようになった。まさに三寒四温の時期。
 
日中春風を受けて、
町中から公園や野原を経て、並木道が次第に農地へとつながっていくあたりを歩いてみた。

 
地面を見れば頭をもたげ始めた野草の芽が点々と緑のサインをつけ始め、空を見上げれば、冬の間硬質に澄み切っていた空気の透明度がやわらいでぼんやりとかすんできた。さらに木々に目をやれば、膨らみ始めた木の芽が幾千もの小枝をほのかに色づけて、木立ちがかすかにもやったように見えだしている。こうしてあたりすべてに混じり始めた春の色は知らないうちに濃くなっていくのだろう。
 
毎日の変化はわずかでも、あるときふと気がつくとあたりの色が一変していつのまにか春があふれていることを感じることがあるものだが、季節の移ろいとともに自分自身も絶えず変化していることは忘れがちだ。忘れがちというよりは、あえて変化を強いられる自分に目を向けないようにしていることがある。

 
春の訪れは心浮き立つ一方で、いつも漠とした不安と隣りあわせだからだろうか。それは春には常に、進学や進級、就職や引越しなどに伴う別れと出会いという、変化への恐れがついて回るためかもしれない。
 
でも変化を恐れ、臆病が自分自身を単なる傍観者にとどめて、いやなことから全て逃げ出して、何もしないでいたらそのとき人は自由だといえるだろうか。

流されて生きるとしたらそれは世の中の奴隷になりかねない。
世の中は明確な行為を持たない私をまたいいように弄ぶことだろう。

自発的な意思を持たない無為な時は私を運命の奴隷にしかねない。
運命はなり行きに任せの私を無気力と怠惰の泥沼に運んでいくだろう。

人は自分の心の奥底から湧き上がる声を意識してなくてはならない。
心の声は明確な意思として現れ、明確な意思は自発的な行為となって
はじめて現実における力となる。それは君を自由へと運んでいく力だ。

そう、自由とは目先の利得にとらわれない自発的な行為のことなんだよ。


散歩のとりとめもない想念が、意識の中で明確な思考の体を見せ始めてきたところで、畠地の小道が途切れた。見渡すと霞のたなびく野原の向こうにひときわ目立つ花の木が立っているのが見えたのだが、それは未来への変化を恐れない自然たちの明確な意思表示のようだった。

 
春の花