壊れたモノ
なんとなくお気に入りの陶器の碗である。
体育会系で理系で管理主義的日常のがさつな私にはまったく不似合いなモノでもある。 はっきり言って私には、年こいて茶道具ボケのクソジジイにでもならんと似合わないだろう。もちろん、一生その方面には向かわないと思われるが。
これはただ、残雪というネーミングと、釉薬のむこうにかすかに見える陶器の地が、淡雪の下に透けて見える地面のようにも見えて当然発作的物欲に駆り立てられて衝動買いとなった次第であるが、それはお気に入りのポイントの半分で、もう半分は別にある。
この器は原材料の土に鉄分を含むため、表面に点々と黒い斑がうかび、独特の風合いがあるが、そのためにもろく、鉄分が劣化を進めるのか、使い込んでいるうちにあるときぼろりと崩れるように割れてしまうことがある。 つまり代々使い続けるものにはなり難い。この「遠からず壊れる」点こそ私のお気に入りのポイントかもしれない。
もちろん、モノの使い捨ては論外だし、丈夫な長く使えるモノも大切だけれども、こうして使い込んだモノがあるとき壊れてしまって、人と物事の何事かを思い出させるというのも、物の果たす大事な役目である。
たとえば、子供の頃の大事なおもちゃが壊れてしまった時のこと、
大切にしていた本がもう大きくなったからと言って捨てられてしまった時のこと。
なくした大切なものにはもう会えないと思ったときの衝撃と、それでもいやおうなく前に運ばれていくことの間で気持ちを整理するたびに私たちは少しだけ大きくなってきたものだ。
ところが大人になって、いつでも取替え置き換え可能な使い捨ての社会システムに組み入れられて、どこかに空しさと違和感を覚えながらも今日も明日も同じモノとして錯覚と妄信の日を私たちは過ごしてしまっているようだ。
たしかにまだ遠いと勝手に思い込んでいる死や定年退職が区切りだと錯覚すれば、毎日は均質で使い捨てとなる。私たちはそんな日を生きていることがある。
どんなに大切に使っていてもこの茶碗はいずれ壊れる。それは今夜かもしれない、
明日の朝かもしれない・・・。
在るものは壊れる。モノも、そして人もまた。それは今夜かもしれない、
明日の朝かもしれない。
