公共サービスとしての戦争
昨日は悪ふざけが過ぎたみたいなので、以下続き。
基本的な内容は昨日と同じですが。
ある統計によれば近い将来(10年後程度)に、今よりも世の中が
悪くなると考えている人は多数を占め、20代以下の若い人ではほぼ100%に
近いのだそうです。
だんだん悪くなることは避けがたい・・・そんな空気に支配された時代を
私たちは生きていることになりますね。
人々に希望と共に、社会の構成員として誇りや安心感を与えるのは
今より良い方向に変化するという期待がベースになるので
将来への明るい見通しを与えられない社会は、それは不安なものでしょう。
ナチスの主な支持者たちが、没落していく一般市民だったことを考えると、
人々の「希望の粗末な代替品」として、ファシズムや戦争礼賛が現れたことは
単なる過去の事とはとても思えない面があります。
一方、今の日本で言われている「増税の一方での避けがたい公共サービスの低下」について、
この先、不満の受け皿として国家がなにを用意できるでしょうか。
居直って「一億一心」「欲しがりません勝つまでは」「この非国民!」・・・?
戦争や全体主義が、高価で粗悪な「公共サービス」の代替品として用意されている
なんて考えたくない未来です。
でも一方で、イラク戦争で潤った軍需関連産業に見るように、
戦争は一部の人々の利権獲得機会でもあるので、
戦争にはその一部のジジイや産業資本家が率先して行って欲しいところですね。
得意の「受益者負担」・「自己責任」ってことで。
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いずれにしても、経済全体のパイが増えない今の社会では
誰かの幸福を食いつぶして我が身の利得を増やすような行為が
正当化されつつあって、その究極が戦争という気がしてなりません。
そういえば、相田みつをだったかのポスターにこんなことが書いてありました。
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奪い合えば足りない
分け合えばあまる
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