『虐待の連鎖』という言葉に思うこと
西日本新聞(6月25日付)に『「不遇な成育歴」影響指摘 背景に「虐待の連鎖」? 筑後事件地裁判決』が掲載されていました。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/254259
私たちが活動の中で出会うおとなの中には、過去に虐待を受けてきた人たちがたくさんいます。
その人たちの中には、「きっと私も虐待するに違いないから、子どもはもたない」と話してくれた人がいました。
「いつか虐待するようになるんじゃないかと思うと、自分がこわい」と話してくれた人もいました。
私たちが活動の中で出会う子どもの中には、過去に虐待を受けていた子どもがたくさんいます。
ドメスティック・バイオレンスの環境で育ち、今はその環境から新しい生活に踏み出している中学生の子は、
「きっと自分はおとうさんのようになると思うから、人を好きにならない」と話してくれました。
「暴力って”血”なんかなあ」と話してくれた子どももいました。
『虐待の連鎖』と言う言葉。
確かに事件が起きた背景に加害行為をした人の成育歴の中の虐待があり、それが影響を与えた可能性はあります。
でもだからと言って『虐待の連鎖』という言葉にしてしまうと、あたかも100%連鎖するかのような印象を持たせてしまう。
それは虐待を受けたことのある人にとってはある種の呪縛や刻印のように響きます。
そして、社会は、その言葉のイメージで「やっぱりね」というようなレッテル貼りをしてしまうのではないでしょうか。
虐待という子どもへの暴力は、もちろん子どもに大きな影響をあたえます。
でも、その影響があったとしても、
自分の話を信じて力になってくれる人、自分と向き合って話を聴いてくれるおとなとの出会い、
そのおとなによる日常的なケアがあれば、それが分岐点になりうるのです。
そういう人たちとも活動の中でたくさん出会ってきました。
今回取り上げられている事件の背景を考えると、
そういう出会い、日常的なケアがなかったことの方が大きく作用していると思えてなりません。
それは個人の問題ではなく、社会の問題です。
